爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(8)

2012年01月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(8)

 物思いにふける時間は次第に減り、ぼくは段々と生きた人間を相手にする時間が増えていくようになる。暖かみにくるまれる時間が自分にとってもやはり必要であった。そこには会話があり、笑いがあった。経験の蓄積が残り、未来への漠然とした信頼があった。

 ぼくは雪代と会っている。以前の知り合いとして。また、未来を信じあえそうな予感のふたりとして。でも、軽はずみになにかをする時期はとっくに通り過ぎていた。また、お互いが持ち寄る会話の内容も以前のものとはまったく違うものとなっていた。
 雪代には子どもがいて、彼女の話ももちろん出る。個性的に育てられたわけでもないが、どうしようもなく個性のある子らしかった。ぼくは物怖じしないその女の子を見た。自分がすでに確立しているような印象もあるが、そこはまだまだ子どもであった。興味のあることがたくさんあり、何にでも関心をもった。

「女の子は笑顔で世の中を開拓できるかもしれないけど、もう少しだけ、勉強のできる子になってほしい。そういう手段を悲しいことにわたしは持っていない」雪代の顔にすこしだけ哀しさのようなものが貼り付いた。それは彼女がむかしは持っていなかった表情だった。「誰か、勉強を教えてくれそうな子を知ってる? 面倒見がよくって、それなりに個性を許容してくれそうな子」
 ぼくは、思案する。そもそも小さな女の子に勉強を教えてあげるという立場に自分はいなかったし、それを教える能力をもったひとなど考えてもこなかった。もちろん、自分もできない。でも、誰かいそうな気もする。

「そうだ、バイトをしたいと言ってた子がいた」
「誰?」
「まゆみちゃんという子なんだけど・・・」
「ひろし君になついていた、あの、まゆみちゃん?」
「そうだよ」
「もう、そんなに大きいの」その言い方は疑問でもなく、流れていった時間を追うような口調だった。
「酔っ払っているのを心配してくれるほど、大きくなっている。みっともない姿をあの子にも見られた。あの子なら、自分も個性的だし、誰かのためになることを厭わない性格なんで向いているんじゃないかな」
「広美は、計画を知っただけでもムキになるかも。塾なんかも絶対むりだって」
「だったら、最初は友だちにしてしまえばいい」
「会ってくれる?」

「会ってくれるよ」そう言いながら、ぼくには何の自信もなかった。ただ、自分というものが樹木であれば、ある幹の養分もべつの幹に伝えられるようなイメージをもった。「自然な計画を探す」
 ぼくは、自分の失われた世界を元に戻すことをそれほど追求しなくなってしまった。このように誰かと接して、新たな計画を練り、未来の糸をつぐもうとした。それは切れ端からまとまった模様のある布になろうとした。それが形作られていく限り、ぼくの人生は正しいものになると認識した。

「やっと、忘れられるようになったのか?」

 ある日、社長と就業後、飲みに行っているときに突然、言われた。何を忘れたのか一瞬、戸惑ったほどぼくは裕紀のことを別の位置に置いてきてしまった。しかし、本質としては、何も忘れていなかった。その思い出自体がぼくの一部となりはじめ、別のところから引っ張ってくるという行為もいらなくなっていたのだ。それでも、過ぎた時間は1年はゆうにたっていた。
「ぼくは、生きている人間を相手にしています。彼らはきちんと返事を持っています。裕紀は何も答えてくれない。いや、間違っていますね。あのとき、ああ言ったから、今度もこう言うだろう。でも、それは即答という意味では、やはり適わない」

「それで、いいんだよ。思い出は、ときどき思い出すぐらいの方が魅力的なもんだよ」
 彼は、しみじみとした表情で言った。満足した人間の顔をしている。誰もが誰かを失ってきたのだ。自分だけが不幸であるという思い上がった気持ちをぼくは雪代から教わり、他のひとの喪失感にも気を配った。
「ぼくにとっては掛け替えのない10年間でしたけど、これからもたくさんの思い出を積み上げなければならないですしね」
「やっと、前向きになった」
「やっとです」でも、ぼくは裕紀がそのまま生きていて、彼女との思い出ももっと作りたかった気持ちも内在させていた。多分、それは半永久的に消滅はしないだろう。だからといって、こころにたくさんのものを入れる余地はまだまだ残っていた。あれも、ぼくで、これもぼくという良い意味で弛んだ気持ち。
「まだ、飲むか?」

「いいえ、そろそろ切り上げます。ぼくは、ちょっと無茶しすぎました。たくさんのひとに恥ずかしい姿を見せてしまった」
「誰も覚えてないよ」
「ぼく自身が覚えてますよ」酔った自分は雪代に頬を打たれ、まゆみと夜の商店街で会った。彼女を思い出せないほど、酩酊していた。だが、ぼくは、いまではもっと明日に訪れるものを見たいと思っている。この目で確認したい。自分に与えてくれるものはたくさんのものがあった。自分を心配してくれる人が数多くいることを再認識した。彼らを悲しませることをしたくはなかった。彼らもぼくを喪失するかもしれないのだ。ぼくが裕紀を失ったあの感情を金輪際、誰にも与えたくなかった。