爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(15)

2012年01月11日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(15)

 娘が泣いている。ぼくが、会社から家に帰ると、そのような状態でいた。ぼくは、そばに寄り、泣いてしまった理由を聞き慰めようとした。しかし、雪代が妨げた。

「ここで、甘やかさないで。自分の悪さから逃げるような真似はさせないで!」と、雪代がいつにない強い口調で言った。ぼくは、そこに彼女たちの10年ぐらいかけて育てた絆を認めた。そこにぼくは軽々しく入っていけないもどかしさも感じた。それで、ぼくは広美の頭をポンポンと軽く叩き、着替えのため自分の部屋に入った。小さな声で広美は、それからも謝っていた。もうしないという決意の言葉も出していた。反対に、次回からきちんとするという言葉かもしれなかった。ぼくは、そのような叱られ方をされない自分の大人の立場を歓迎し、逆に誰かを親身になって叱ることもしてこなかった自分に憐れみも感じた。雪代も憎くて叱っているわけではないことも理解できたが、それでも広美が不憫でもあった。

 ぼくは食事の席につく。広美はすこし大人しくしていたが、いつの間にか、通常の元気も戻りつつあるようだった。
「きょう、学校どうだった?」ぼくは、箸を器用にもつ広美に訊ねる。
「転校生が、来週に来るんだって」
「いまごろ?」
「そう、いまごろ。先生が言った」
「なにか事情があるのかしらね?」あまりにも時期が珍しかったので、雪代もそう言った。
「急な親の転勤とかかね」ぼくは自分が日々、顔をつき合わす同僚のことを思い浮かべる。だが、娘を通してこのような新たな情報を手に入れる生活があった。ぼくは亡くなった元妻だったら、どのように接するのだろうとたまに考える。彼女は小さな存在が好きだった。利他的でもあった。その少しだけでもぼくは裕紀のためにも使いたかった。

 その後、広美はお風呂に入った。ぼくは雪代が食器を片付ける背中を見た。

「さっき、どうしたの? 泣いてたね」
「まゆみちゃんがやるように言ってた宿題をぜんぜんしていなかったのよ。うそみたいな言い訳を並べたから、許せなかった」
「そうなんだ」
「ひろし君だって、責任があるからこそ、遅くまで仕事をすることもあるでしょう?」
「まあね」
「わたしだって、そう。早く、そういう責任感を広美にも持ってほしい。約束を守る子になってほしい」
「知らなかったよ。まゆみちゃんにも訊いてみるね」

 ぼくは、ぼんやりとテレビを見て、空いた風呂に入った。湯船に浸かり、自分が納まった生活に思いを馳せた。ぼくの母親は急にできた家族に戸惑いながらも、広美を可愛がった。彼女はぼくの甥と同級生であり、ぼくの姪のことも妹のように接し馴染んでいった。それで、雪代とぼくの妹は学校の行事のことで相談などもした。ぼくと妹の夫である山下も似たような会話をもった。それは、ぼくが意図したことではなかったが、生活らしい生活だった。

「デザートがある。わたしがお風呂から出るまで、広美もひろし君も待っていて」と言いながら、雪代は扉の向こうに消えた。ぼくらは忠実な番犬のようにその言い付けを守っていた。それから、雪代はパジャマ姿で冷蔵庫を開ける。盛られたフルーツがでて、ぼくらは銘々に自分の皿にスプーンですくって、それから口に入れた。

 それも食べ終わると、広美は歯をみがいて眠る前の儀式のように母に抱き付き、自分の部屋に消えた。今日、彼女にどのような眠りが訪れ、夢の世界がどのように展開するかを理解したかった。だが、それは個人的なもので親でも介入できなかった。

 何日か経って、ぼくはまゆみとお茶を飲んでいる。過去にはバイト先の店長の娘であったはずの彼女が、いまや、娘の勉強をおしえてくれる立場になっている。彼女のもつ個性が、多分、娘の成長にも役立つのであろう。そして、その面での責任も生じることになる。ぼくは、今更ながら誰かの影響を受けて自分が作られてきたことを学んでいる。自分だけで生きていたと思っていたが、それは思い上がった考えでもあったようだ。これからでも、裕紀の優しさの一端を学びたいとも思い、雪代の頑ななまでの信念(彼女は若いときの望みをすべて叶えていた)からも、ふさわしい影響を受けたいと思った。

「あの子のこと、教えるの大変?」
「なんで?」
「この前、宿題をしないとかで、雪代に叱られていたから」
「あのぐらい、誰でも忘れるものだし、その代わりに、ある程度の注意も必要だと思うよ。反省を促すために」
「そう。それほど、じゃあ、心配もいらないんだ。でも詳しいね」
「大学で、そういうことも学んでいるから。子育てになれていない?」
「いや、逆かも。親になることになれていないんだろうね」
「急にはね」彼女はストローで飲み物を飲んでいる。「広美ちゃん、とても、いい子じゃない。わたし、好きになった」
「そう。ありがとう。自分のことのように嬉しいよ」

 ぼくは自分でもない人間を評価した誉め言葉に感情が大きく左右されることを知り、お茶を飲み干し、自分と年代の離れた仕事仲間と会話の内容が変わるだろうかと考えていた。彼らも誉め言葉を必要としているのだろうし、それらの喜ぶ顔や悲しむ顔もぼくの感情を左右してしまう状況に置こうとした。