爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

壊れゆくブレイン(23)

2012年01月21日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(23)

 広美とまゆみはまた海に消えた。ぼくらは、少し店に残り、客が引いていくのを見ていた。
「ぼくは、ここに裕紀と来たんだ」
「隠さなくてもいいし、知ってるよ。多分、そうだと思っていた」雪代はぼくの方を見ずに言った。「わたしにも思い出の場所があるし、彼との秘密もある。それが、再婚なんだよ。でも、広美に暖かく接してくれて、いつも、ありがとう」
「ぼくも子どもがほしかった。いつか、そういう役目についたら、どう振舞うかもたまに考えていた」
「いい、お父さんだよ。違うかな。お兄さんかも」こちらを見て雪代は笑った。その健康そうな表情がここに似合っていた。
「すわって、タバコを吸ってもいい? ちょっと、一服」店主がエプロン姿でこちらに近寄ってきた。
「どうぞ」と言って雪代が椅子をすすめた。
「前の奥さんも素敵なひとだったけど、いまのひとはもっときれいだ。それに娘も可愛いし」彼には、いつも思うが率直さしかないようだった。
「ありがとう」

「よかったら、来年、ほんとにあの子、ここで働いてもいいよ。そして、あなたたちも何日か泊まればいい。うちの娘も生きていたら、広美ちゃんみたいになっていたのかな」
「そうかもしれないね」ぼくは、その子の存在を話でしか知らなかったが、とにかく同意した。
 ぼくらは、そこからまた海の方まで歩いて行った。雪代は帽子にサングラスをしている。ぼくは半袖に薄いズボンに腕時計だけをしている。そのため強い日差しを手の平で遮らざるをえなかった。
「貸そうか?」雪代がメガネの縁を指で触りながら言った。
「サイズが違うよ」

「そうね」また、腕をしたにもどした。
 ぼくは、広美が浮き輪をつかって波に揺られているのを見つけた。その浮き輪をまゆみは手で掴んでいる。
「いたね」
「どこ? あ、いた」雪代も彼女らを見つける。
 ぼくらは石段のうえに腰を降ろす。そこからソースが焦げるような香ばしい匂いが感じられた。横では若い男女が夢中になって、なにかを話していた。まだ、贅肉のかけらすらないような身体。
「わたしたちも、いっしょに若いときに海にいったね」
「ぼくは、そのころ、背伸びをしていたような気がする」
「どうして?」
「少し年上の女性だし、東京に行ってたから」
「ひろし君の東京はどうだった」
「大変だったけど、張り合いもあった。もうひとつの故郷とも感じるけど、もうあまり魅力を感じていないのかもしれない」
「そう」

「取り敢えず、大切なものは元のところにあるわけだし。雪代とか広美とか」
 広美はぼくらの居場所を気づき、手を振った。雪代は帽子を脱いで、それを大きく振りかえした。
「楽しそうだね。勉強もできるようになったし。あの子、来てくれてほんとによかった」
「いずれ、数年でもっと大人になって働きはじめる。それからもふたりの友情が続けばいい」
「そうね。悩み事を相談したり」
「ぼくと社長もそういう関係になった」
「たまに息子みたいだよ」
「上田さんは、あまり帰って来ないからね」
「身近にいるひとがいちばんだよ。そばにいるひと。いつも、そばにいてくれるひと」

 雪代はぼくのひざのうえに手を置く。ぼくにはもう背伸びをするような感覚はなかった。むしろ、お互いの感情を往来させるエッセンスのようなものがあった。若さがもつドキドキするようなことや、毎日が新鮮であることを求めるような日々ではなかったが、ぼくらは両者が馴染んでいく感じを楽しむようになった。ぼくは、雪代を失うわけにはいかず、彼女もそう思ってくれていれば良かった。ぼくは、そのために何かを誰かを失う経験を通過することが必要だったかもしれず、同じように雪代にとっても重要だったのかもしれない。失くしたものは戻ってこないが、いまあるものもそれほど悪いものではなかった。むしろ、良い方の部類がたくさん残っていたことを感じ続けていた。

「ちょっと、歩く? 砂の上を」
「いいよ」ぼくは立ち上がり、雪代の腕を引っ張る。彼女も立ち上がり、もうひとつの手でお尻についた砂をはらった。
「ママ」広美が大きな声で叫ぶ。その後に次に来た波で一瞬だけ身体が消える。その数秒後、また海上にでてくる。それを、ずっと繰り返していた。やがて、それにも疲れて、ぼくらの横にふたりは走ってやってきた。
「疲れたでしょう?」
「ぜんぜん」広美が元気そうに答える。
「まゆみちゃんは疲れたでしょう?」
「少し」

「広美、なにか買ってきて」雪代が広美の手に小銭をつかませた。
 彼女は小走りに遠くへ離れた。途中でビーチ・サンダルが脱げ、2、3歩戻ってきて、その失敗に照れたようにこちらに笑いかけた。
「まゆみちゃんの勉強はどう?」ぼくは、ふと心配になってきく。広美の成績を優先させたため彼女の勉強がおろそかになっていたら困るためだ。
「すすんでる。はかどってます」
「なら、良かった。子どもの面倒を見てもらって、とても助かっている」
「教員の免許も取りたいから」
「そう、スパルタはいけないけどね」
「わたし、優しいですよ。証人が戻ってくる」広美は2本のジュースと2つのアイスを抱えている。それは危なっかしい姿勢だった。それを見かねて、まゆみがそちらに歩き出した。雪代は小さな声で、「大丈夫よね?」と確認するためかそっと言った。