爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(22)

2012年01月19日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(22)

 その日は、ホテルのレストランで4人で食事をして終わった。ぼくと雪代は自分たちの部屋にもどった。となりでは若い女性たち2人が眠さをしのんで話し込んでいるのかもしれない。そのことすらぼくらは忘れてしまっていた。

「また、こんな日が来るなんてね」
「どういうこと?」ぼくは、素朴に疑問に思った。
「わたしは、ある男の子のことをきっぱりと忘れ、結婚した」雪代はため息にも似た小さな吐息をつく。「それから、娘もできて、また、その男性とこんなところにいる」
「後悔しているように聞こえるけど・・・」
「してないよ。なんだか、遠回りしたようにも思ってる」
「いつか、それが普通のことのように思えると」
「うん?」

「これが、正しかったんだなと感じられるといいね、と言いたかった」
 彼女は気付くと40代になっていた。これからの人生は、ぼくがずっと一緒にいるのだろう。遠回りといえば、そういえたかもしれないが、もしかしたら、ぼくらは永遠に出会わないことも考えられたのだ。それを思うと、ぼくは恐ろしくなった。ぼくの間の10年間をのぞいては、いつも、雪代がいたことになる。それは、ぼくの人生を彩った証拠にもなり、また実感でもあった。そして、ぼくらは娘や家庭のことを忘れ、同じ部屋のなかにいた。ぼくは、まだ10代で東京にいる雪代に会いに行った日々を、そこで思い出している。まだ、未来はぼくの腕のなかになにもなく、すべてが淡い希望だけで生活していた時期だ。大学に受かり、裕紀はぼくの知らないところに離れてしまった。それを必然とも感じていた。ぼくは雪代の存在におぼれ、夢中でいた。理想の存在があらわれ、彼女も自分を愛してくれているという事実が誇らしかった。

「いまでも、正しいと思っているよ」
「あれから、20年以上も経ったんだね。雪代は変わらない」
「お世辞?」
「口調で判断してほしいね」雪代は笑った。暗い部屋のなかで、その音が響いていた。
 朝になり、となりの部屋はまだ静かだった。ぼくらは朝食前に、暑くなることが予感されている外へ出た。砂浜の上を歩き、お互いの手の平のぬくもりを感じた。彼は、またもやそこにいる。
「おはよう、こちらが奥さん?」
「広美が昨日、言ってたひとだ」
「ここを故郷のように感じてほしい。失われたひとびとの故郷」

「そうする。でも、いつか、そこを出ないと」ぼくは決意のような言葉を口にする。
「オレは、まだ準備ができていないからな」彼は淋しそうに笑っていた。「また、店に来て。歓迎するよ」
「昼にでも」ぼくは、そう約束をして、散歩をつづけた。
「誰か、失くしたの?」雪代が不安そうに訊く。
「娘が、この海で」
「そう、残念ね」

 ぼくらは、それぞれ大切な存在を失ったもの同士だった。だが、代わりにはならないにせよ、また大切なものを手に入れられたのも事実だった。そのように人生は続いていき、見返りも多かった。だが、少なからず代償は払ったのだ。
 部屋に戻ると、広美が入って来た。

「ノックぐらいするのがマナーだよ。昨日は、眠れた?」雪代が優しくたずねた。
「いつの間にか眠ってた。でも夜中に電気をわたしが消した。ご飯は?」
「まゆみは用意できてるの?」
「いま、してる」
「じゃあ、下に行こう」と言って、ぼくはそのまま外に出た。広美は、自分の部屋をノックして、まゆみを呼んだ。
「ママたち、きょう、なにするの? 海に行く?」
「わたしたちは、この辺を観てまわる。お土産も買うしね」
「お昼ご飯は?」
「昨日のお店で食べよう。まゆみちゃんの来年のバイトの契約もしないと」
「あそこで、のんびり夏の間、過ごせたらどんなにいいですかね」まゆみは雪代に同意を求めた。彼女が返事をする代わりに広美がただうらやましがった。

 それから、広美たちは浮き輪などをつかみ、出掛けていった。ぼくと雪代は、財布だけをもち、手ぶらで外出した。雪代は大きなサングラスをしている。ぼくは軽装という以外では表現できない格好をしていた。

 先ずは、近くにあった美術館に入った。ここを出身地とする彫刻家の作品があり、また新たに住み始めた画家の絵もたくさんあった。ぼくらが朝、歩いて見た岩がデフォルメされて描かれていた。それだけで、ぼくは故郷にしてと言った先程の言葉を思い出している。

 それから古びた、それでいて味のある商店街を歩く。途中、お茶をして普段お互いができない、のんびりとした時間をもった。それにも飽きると、雪代は自分の職場のひとに、ぼくも同僚たちに小さなお土産を買った。雪代は、まゆみに似合いそうといってカラフルなTシャツを選んで買った。

 ぼくらにこのような快適な時間を与えてくれたまゆみの性格を批評したり誉めたりして時間を過ごす。それで、予定通り、午前中にしたかったことをすべて終えると、昨日の店にむかった。
「4人分のランチをお願いします」とぼくは言う。そこには、はっきりとしたメニューがなかった。店主の奥さんが作りたい、そして食べさせたいものがメインであるらしかった。テーブルに運ばれ、少し経つと、海で時間を費やしたふたりがあらわれた。彼女らは、午前の経験を笑い合ってしゃべり、その共同体を再確認し、それだからこそぼくらには良く理解できないものも含まれていた。しかし、日に焼けた10代の女性というのは、それだけで美しいものだと、ぼくと雪代は確かに思っていた。