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第一義に組織よりも個人の幸福が追求されるべきであり、現在の知識よりも貨幣を優先する仕組みはおかしいの巻

2018-10-08 22:31:10 | 情報
 日本国憲法第13条に
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
と書いてある。
 あまりに当たり前の事なのだが、実態はそうではない。苛烈な労働環境や搾取が横行しているのであって、経済的に困っている人が増えているのが実情である。

 日露戦争で203高地攻略戦というのがあった。露軍陣地下部を掘削して爆薬を仕掛けて爆破するも構築陣地を崩すには至らず、結局白兵戦にて膨大な死傷者を出して攻略を完了した。
 203高地は攻略は旅順港に立てこもる露艦隊を砲撃するためのものであったが、実は先に占領していた近くの高台から重砲による砲撃をすでに行っており、直撃弾はすくなかったものの至近弾などにより太平洋艦隊(露艦隊)は実質的無力化されていたのである。
 旅順港から出てきた太平洋艦隊は、黄海海戦にて日本帝国海軍との交戦を徹底的に避けて、ウラジオストクへ回航を目指すも砲戦で敗退し、残存艦艇は旅順に帰還している。

 この戦術的に無意味だった203高地攻略において、人命損耗を度外視した戦法が成功してしまったがゆえに、日本帝国陸軍は歴史上稀に見る人命軽視の軍隊となってしまった。「靖国で会おう」という宗教観も人命軽視に拍車をかけた。

 そういう悲しい戦史の果てに敗戦を迎え「米占領軍による押しつけ憲法」によって日本は世界でも最も先進的な憲法を得ることができた。これは当時のGHQが開明的な民政局主導で憲法案が作成されたことによるものである。
 自国の政府が自分の政府を過度に縛る憲法を制定するのは難しい。それまで、天皇の命によって発令される軍令実行の過程で、人命軽視で戦争遂行を行ってきた統治機構が、戦後もその内部に「天皇制という国体」を残しているがゆえになおさらである。
 巷にはこの「押しつけである憲法」という現実を見据えるのを嫌がる向きがあるのだが、それは歴史に対する背徳である。

 元国会職員の平野貞夫氏によると自民党政権は本能的に憲法を破る傾向があるという。現在の労働者からの権利剥奪を見れば、日本国憲法の有名無実化を狙っているとしか思えない挙動である。
 ゆえに人民の不幸は逓増し、幸福への追求への気力もまた薄れてしまうのである。

 目を閉じて静かに考えて欲しい。自分が習った先生で「第一義に自分(あなた)の幸福を追求しましょう」と言った人はいるだろうか?
 私は革新政党出身者が首長で比較的左派が強い土地柄で育った。先生方も反戦的な傾向が強かった。それでも、組織よりも個人の幸福を追求しろ、といった先生は一人も居ない。恐らく今どきは、そんなことをいいようものなら文字通り粛清されてしまうだろう。
 国旗の掲揚はともかく、国家斉唱を強要し、斉唱しない教職員を解雇する事例まであった。つまり、国家に尽くすことを第一義にしろ、と教育しなければ、職が保障されない、とも解釈できる挙動である。

 だが、本当にそれで良いのだろうか?憲法13条の理念と衝突する。だから、アベ政権は改憲を目指しているとも思えるが、とりあえず、今は日本国憲法下にあるのだから、自分自身の幸福を追求しても四の五の言われる筋合いではない。

 話が跳躍するのだが、人もまた動物の一種であり、有機生命体としての生命維持を最優先で考えなければならない。生命の維持を知識と貨幣(お金)が支えている。知識が不十分なら場合によっては即死だが、現代社会は交通事故を除けば、比較的危険が少ない。そのせいもあるのだが、知識が軽視され、貨幣価値が偏重される嫌いがある。

 貨幣の万能感が強すぎて、これまた知識が軽んじられる。貨幣をどうやって得るのか?ということが最大命題となっている。

 金融や原発の事を調べて分かったのだが、結局、日本では対人への危険度などが軽視され、巨額の資金を動かして、それを権力の源泉として社会を支配するという傾向が強い。

 例えば幸福を尺度にして原子力発電を考える。事故が起きなくても定期点検などで被曝は避けられない。人的被害を考慮し、適切な賃金・適切な被曝補償を考えれば、原子力発電は存続しえない。事故が起きなくても、人的被害発生で他の発電方法に劣る。火力発電のCO2の排出がどうのこうのとうい以前に、原子力発電は人的損耗を前提としているがゆえに選択肢にすらならない。
 対米隷属構造を跳ね返すには「自国民の安全」を理由にするしかない。排気筒から放射能がでるし、温排水にも放射能が入る。米国に対して、日本が原発を止めるに値する正当な理由が厳然と存在する。
 しかし、日本社会は天皇制という封建体制の残滓をひきずっているせいもあって、個人の幸福についてあまり語らいえない。閉鎖的な日本社会では語られないことに重要な真実が存在することが多い。幸福追求権もその一つである。

 食の安全などというが、実際にテレビCMの食品はどれも有害であって、食べるに値しない。食べるに値しない食べ物が数千万円から数億円の広告費を費やして販売されている。つまり、メーカーは巨額の広告費を払っても有り余る利潤を有害な食品製造販売で得ている。
 まさに不幸の逓増を狙った消費社会が形成されており、これに異を唱えようものなら、即時に村八分どころか村十二分にされるのである。つまり、自己の健康追求という幸福追求の前提となることすらも、共同体認識に逆らうことになるであれば、放棄せざるを得ない状態に置かれている。当然、私などはそんなことはおかなまいなしに、テレビの害悪については百万言をも費やして書き記しているのであって、起点にあるのは個人の生命体としての防衛行動であり、飛び交う火の粉は払うに越したことはないのである。

 若い頃は知識が少ない。若いという利点は大きいのだが、現代日本社会は知識よりも貨幣を優遇するあまり、即死はしないけれど、ゆくゆくは自分に害をなす財やサービスで溢れているのであって、そういった危険を「体験」して学んでいくよりは、情報収集と己の推論力で避けたほうが、体に対する負荷が低い。若い内は苦労しろというが、寿命を縮めるような事はしないほうが良い。

 幸福追求と金儲けは両立しうるのである。例えば、人に魅力ある意匠を生み出そうとする。その発想の根底には人の幸福への追求要求が存在する。人を幸せにしようという意欲がなければ魅力あるデザインも発想しずらい。アップルのようにデザインで世界的規模に上り詰めた企業もある。
 今の日本のように「組織に隷属させる」ことを最優先して、新入社員に同じような服装をさせて、同じような挙動をさせているようでは、日本産業界は国際競争で敗退する一方である。

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