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シュメールの歴史

2018-11-07 21:00:13 | 歴史
 前10000-8000年の古代遺跡がトルコ東部の遺丘ゴーバックリー・テペ(ギョベクリ・テペ)から発掘される。石柱の総数は200本以上、各石柱は6メートル以上、重さは20トン
 遺丘の隣に位置し発掘調査が待たれている構造物は前15000年紀とされ、更新世(洪積世)を1000年も遡る。
 石柱は謎めいたピクトグラム(絵文字)や動物の彫刻で装飾されている。狩猟採取社会であった事が窺える。周囲にはわずかに定住の痕跡も見られ、野生の麦を採取していたと考えられている。
 宗教施設として建設され、先祖崇拝の神殿として機能して、周辺の信徒にとっての巡礼場所となっていたと考えられている。
 古代の天文台という説もある。

 古代のシュメール人の信仰とよく合致する。すなわち、アヌンナキの神々が住む聖なる山エクル(英語版)から人々に農耕、畜産、織物が伝えられたという信仰である。

前7200年頃:トルコのコンヤ高原の「チャタル ヒュユク」。灌漑農業を行い、人口は6000人を越えていたという。
 家と家がすき間なく隣接していて、道路がない。家の屋上の戸から出て、家の屋根づたいに移動したのである。家の屋根を道路として使い、街全体を城壁とした。

前7000年紀前半:メソポタミアの肥沃な三日月地帯にジャルモ遺跡などに見られる農耕文明が生まれた。

前6000年紀中頃: チグリス・ユーフラテス河の下流の沖積平野は定期的な洪水が起こる中で、潅漑農業が始まったと考えられる。

前4000年紀頃:シュメール人が最初に都市国家を形成し、メソポタミア文明を成立させた。メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行い、キシュ、ウル、ウルク、ラガシュなどの最初の都市文明を生み出した。青銅器や楔形文字、多神教信仰、シュメール法典、子供や役人育成のための教育機関、最古の神話ギルガメシュ英雄叙事詩などの文化が産みだされた。
 古代オリエントは前4000年紀のシュメール人の都市国家から前330年のアケメネス朝ペルシアの滅亡までを指す。

前3200年頃:ウルクから見つかった粘土板は約800枚(断片を含めると約3000枚)、紀元前3200年頃のものとされており、絵文字またはウルク古拙文字とも言われる。ウルクの絵文字には約1000の文字が使用されているが、完全には解読されていない。
前2600年頃:ギルガメシュ王がウルクを統治する。

前2500年頃:ウルク市で発明された絵文字(古拙文字)が、整備され完全な文字体系に整えられる。表音文字も登場し、文字の数も約600に整理され、シュメル語が完全に表記されるようになった。起筆が三角形の楔形で書かれるようになり、こうして楔形文字が誕生する。

前2350年頃:ウルク第3王朝のルガルザゲシ王が、シュメールの諸都市を統一する。シュメールで最初で最後の統一王朝となる。

前2300年頃:アッカドのサルゴン王は、シュメールのルガルザゲシ王を破り、シュメールを併合した。これがアッカド王国である。「アッカド+シュメール=バビロニア」。この王国を担ったアッカド人は、シュメール人とは異なる民族である。アッカド人は、シュメールの高度な文化や、くさび形文字を継承する一方、独自のアッカド語を編み出した。

前2250年頃:異民族の侵入が続きアッカド王国は大混乱に陥る。

前2200後-前2100初:シュメール諸都市は、アッカド王国に対し反旗を翻し、ウル第3王朝を復興させた。「ウル・ナンム」はシュメール系のウル第3王朝の初代王。分裂状態にあったメソポタミアをほぼ統一した。各地に巨大なジッグラトを建設しシュメール文明を復興。世界最古の法典ウル・ナンム法典を制定。刑罰と損害賠償を定め、約350年後のハムラビ法典の同害復讐と異なる。

前1900年頃:シュメール人のウル第3王朝を滅ぼしたアムル人がバビロンを都としてバビロン第1王朝(古バビロニア)を建国した。

前1792-1750年:バビロン第1王朝第6代の王ハンムラビ王が、全282条からなるハンムラビ法典を制定した。

前2000-1500年頃:西アジアの大きな民族移動によってに、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、カッシート、ミタンニなどの侵入を受け、鉄器時代に入る。

前1286年頃:小アジアのヒッタイト王ムワタリと、シリアに進出したエジプト新王国のラメセス2世の軍隊が、カデシュで衝突した。このカデシュの戦いは、一時ヒッタイト軍が優勢であったが、ラメセス2世の勇戦によってエジプト軍が態勢を取り戻し、勝敗決せず終わった。これによってエジプト新王国はシリアの領土を確保することができた。

前1269年頃:エジプトとヒッタイト両国の間で、平和同盟条約が締結された。この条約は現在知られている世界で最初の国際条約といわれている。

前1200年頃:メソポタミア北部でアッシリア人が、鉄製の戦車と騎兵を使って有力となる。トゥクルティ=ニヌルタ1世がバビロニアから戦利品としてギルガメッシュ叙事詩を持ち帰る。

前8世紀末:サルゴン2世がメソポタミアの分裂時代を終わらせて統一。サルゴン2世がメソポタミアの分裂時代を終わらせて統一し、アラム人やヘブライ人を支配下に組み込んだ。

前663年:アッシュール=バニパル王がエジプトを征服して、初めてオリエント全域を統一、西アジア最初の「世界帝国」としてのアッシリア帝国を作った。これによって、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明に統合されたと言える。
 最盛期の都ニネヴェの遺跡からは大量の楔形文字を記した粘土板が発掘され、世界最古の図書館とも言われている

 アッシュールバニパル王は文書収集に熱中した王として知られる。彼はアッシリア全土に書記を派遣し神話・医学・宗教・言語などの学術書、果てには商業証書や一般人の手紙までを集めさせた。全国の蔵書家に文書の供出を命じ、複写させた(しかも原本の返却をしなかった)。これが、オリエント世界の知識の集大成とも言える図書館を建設へと繋がった。これは現在アッシュールバニパルの図書館、またはニネヴェ図書館として知られている。最も残存率の高いギルガメシュ叙事詩の版本もこの図書館に保存されていた。また、こうした文書収集に関するアッシュールバニパルの命令書も保存されていた。

 ニネヴェ市の王宮書庫と図書館には、推測によると、文学作品が約5,000点、書簡や記録文書が約6,000点ほど納められていた。

 バニパルは博識な王であり、識字率の低かったオリエントにおいて、国際語のアッカド語のみならず、死語だったシュメル語まで解した。図書館に関しても「余は書記の神ナブーの叡智を書き留め、吟味し、書物を比較対象してここに所蔵した。余が見たり読んだりする為である」と記名している

 アッシリア帝国はまもなく倒れて4国分立時代となり、メソポタミアには新バビロニアがバビロンを都に有力であった。しかしイランにアケメネス朝が起こると、前6世紀中頃、その勢力が西アジア全体に及びメソポタミアもその支配を受ける。

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