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シュメール文明について

2018-11-08 22:02:42 | 歴史
◯宇宙人の否定
 ネットではアヌンナキは宇宙人であり、シュメール文明は宇宙からもたらされたなどと吹聴する動画やブログで溢れかえっている。
 少し調べれば分かることだが、シュメール文明が突然発生したわけではない。
ギョベクリ・テペ→チャタル・ヒュユク→シュメールと狩猟採取社会から灌漑による農耕社会へと段階的に発展している。

 楔型文字も突然発生したわけではなく、エジプトのように象形文字から経済文書の作成用として楔形文字に変化している。効率を考えての上だと思われる(私見)。


◯目が大きい像を残したシュメール文明
 シュメール人というと、よく目の異様に大きい像が引き合いに出されるが、これは祈願者像と呼ばれる、神殿に奉納され、奉納者の代わりに神に祈る役割を持つものであり、シュメル人の外見的特徴を写したものではない。
 目が大きい理由は「目に神が宿る」という独特の信仰があったようだ。年を重ねるにつれて作品の目がでかくなっている。
 目そのものが人を引きつける力を持っているのは確かである。信仰により人を束ねて大集団を維持することが文明の起点であるとする考えがある。(私見)
 写実性を損ねても目を大きくすることが、芸術として進化しているとは言い難い。ギリシャのパルテノン神殿に陳列されていた彫刻の写実性は極めて高い。ルネッサンス様式も写実性を極めている。人(ギリシャの場合は神々)そのものを賛美する場合は基本的に写実性が高くなる。
 日本の萌文化の目の巨大化は、商業的な理由である。


◯高度な技術
 紀元前4-3千年のシュメール文明は、文字をもった最古の文明として知られるが、高度な天文技術、建設技術、政治体制、青銅技術を育んでいた。
 「都市」(城塞都市)、職業・身分制度(分業)戸籍調査、暦法と時間、インフラ(交通網の整備)、金属の利用(銅製品・銀貨幣鋳造)、文字<表語文字>、法典の制定(実定法)、女性たちの地位、占卜、馬の利用(戦闘)、行政に書記官までいた。
 前期シュメール文明では初歩的な数学が生まれ商業が発展したが、当時数の概念は神に帰属すると考えられていた。
四則演算より複雑な計算を勝手に行うことは禁じられていた。
初代アルリム王の治世下では、線形代数を王宮の外で論じた数学者が利き手を切り落とされた記録が残っている。(要検証)

 光学望遠鏡がなければ絶対に肉眼では見えない、天王星や海王星の軌道も記された太陽系の図が粘土板に刻んである。(要検証)

 灌漑で大麦の収穫量を増やした。1粒の大麦で70粒程度の収穫があったとされ、後のヨーロッパでの小麦栽培などに比べても効率が良い。

 60進法はシュメール文明の発案であり、60進数は時計に残されている。
60のように、それ未満のどの自然数よりも多くの個数の約数をもつものを高度合成数(highly composite number)という。
 エジプト文明が太陽暦を採用していたのに対して、メソポタミア文明は太陰太陽暦を採用していた。エジプトの場合、毎年発生するナイルの氾濫に合わせて太陽暦を造り、河口で栄えたシュメールは月による干満潮が重要だったので太陰(月)太陽暦となったと言われている。

 ビールはシュメールの発明である。ビールの歴史は古く、紀元前4000年以上前には発明されていたという。
 ちなみに、産業革命まで、ヨーロッパでは日常的にビールが飲まれていた。就業中の者もビールを飲んでいた。生水を飲むのは危険であり、アルコール1%程度でビール醸造し滅菌して飲んでいた。ただし、産業革命で酔って就業すると機械事故を起こすので、就業中にビールを飲む風習は無くなったという。

 シュメールに鉄器は無かったようで、鉄器で武装したアッシリアに滅ぼされてしまう。
◯生活
 残された粘土板の文言によると、生活苦について言及している。また、教育熱心であったようだ。森林がそれなりにあったようで、「家を建てるのに木を切ってしまって心苦しい」という内容の記述もあった。


◯シュメール語の文書
 シュメール語が使用されていた時代の文書資料はほとんどが経済文書であり、文学などはシュメル語が使用されなくなった古バビロニア時代以降に書かれたものである。
 ただし、文学そのものはウル第三王朝時代までに成立していたと考えられており、使用されなくなっていた時期にシュメル語の文学が書かれていた理由は、シュメル語が中世ヨーロッパのラテン語のような教養語としての地位になり、祭儀などの文書記述などに用いられていたためとされている。

 双頭の鷲の紋章の起源は古代シュメール文明だとされている(要検証)。双頭の鷲といえば、ローマ帝国、ハプスブルク家などのローマ帝国の継承者達が用いている。ロシアでも用いられていた時期がある。


◯多神教
 メソポタミア文明のシュメール人と、アムル人やアッシリア人などセム系民族はそれぞれ、自然神崇拝、あるいは祖先崇拝から始まったと思われる多神教信仰を持っていた。
 シュメール人ははじめ、天空神アン(アヌ)、大気(風)の神エンリル、地の神を意味し知恵を司るエンキ(エア)など7神を持っていたが、灌漑農耕が広がった頃からイシュタル神という豊饒と戦争を司る地母神(女神)が神々の中心となった。
 七大神(アン、エンリル、エンキ、ナンナ、ウトゥ、イナンナ、ニンフルサグ)は、独立した一人神であり、それぞれの神の間に関係はなかった。ゆえにシュメールでは、神統譜は基本的に作られなかった。
 これらのオリエントの神々は、ギリシアのオリンポス12神の中の女神アフロディテや、ローマのヴィーナスにつながる神である。

◯多神教から一神教へ
 エジプトでは太陽神ラー(アメン=ラー)を中心とする多神教であった。多神教が支配的であったオリエント世界に一神教を初めてもたらしたのは、ヘブライ人のヤハウェ神信仰であった。またエジプトでも新王国のアメンホテプ4世はアトン神という唯一神への信仰を国民に強制したが、それは一神教革命としての宗教改革(アマルナ革命)とされている。エジプトでは一神教は定着せず、それ以前のアメン=ラー神を中心とする多神教に戻ったが、モーセに率いられたヘブライ人がエジプトから脱出したという伝承の背景に、一神教が認められなかったことがのではないかという見解もある。また一神教は前15世紀ごろのオリエント世界の統一の動きという政治的な流れの中で、アルファベットという表音文字の普及とともに民族を越えた普遍的な世界観を生み出していくこととなったと考えられる。<本村凌二『多神教と一神教-古代地中海世界の宗教ドラマ-』2005 岩波新書>


(1)多神教
https://www.y-history.net/appendix/wh0101-027.html













THE UFO 神々との遭遇!宇宙人と超古代文明 1995


 1950年代の初め、考古学者リチャード・ダンブリル博士らが紀元前14世紀の粘土板を数枚発掘した。その粘土板は、シリアの古代都市ウガリットで見つかり、フルリ語のくさび形文字の署名を含んでいたことから、これまで発見された中でも最古の音楽作品、3,400年前の儀式用の賛美歌であることが判明した。

"Hurrian Hymn No. 6" (c.1400 B.C.E.) Ancient Mesopotamian Music Fragment

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