田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

ペットの行き場は・・・

2016年04月25日 | 日記
 熊本の震災避難者をTVで見ていた時「ペットを連れているから建物内には入れない」と、寒い屋外の軒下に避難している人がいました。今日の産経ニュースで「人の水ないのに犬に飲ませるのか」と取り上げられていました。
 
 昔々の話です。私は五男一女の末っ子、兄二人は幼くして世を去ったので、生まれた時から三男坊として育ちました。我が家は、父が趣味で狩猟をしていましたので、常に猟犬が二、三匹いました。父も母も犬が大好きでした。そんなことからか、子供が幼いころは、それぞれ番犬(子育て犬)があてがわれていました。幼い頃からの犬の接し方で、犬の育て方を子供に教えたかったのかもしれません。
 
 私が小学生の時、同級生が川で溺れ死にました。そもそも私は泳げず、川遊びはしませんでしたが、父が「もしお前が死にそうになったら、必ず犬の鎖は外せ。犬はお前を助けようとするが、絶対にお前といっしょに死にはしない。誰かに助けを求めて走る。お前よりずっと利口だ」と言いました。とても過激でしたが『最後は犬を自由にしてやれ』と、実は言いたかったのでしょう。
 
 数年前のことです。私の団地はペットの飼育が禁止です。規約に『他人の迷惑になるペットの飼育を禁止する』とあります。そのまま読めば、迷惑にならないペットならば良いと思う人が多いのですが、規約文の意味は「ペットの飼育は他人の迷惑」という解釈らしいです。とても近ごろの文化には合いませんね。
 
 ある時、定年を迎えたご主人と海外旅行が趣味という奥様が「犬やネコが私の部屋の上で歩いているなんて、絶対に考えられないし許せない」と言うのを聞きました。人にはそれぞれ好き嫌いがありますから、嫌いなものを好きになれとは言えませんが、きっと犬やネコに好かれなかった人生だったのでしょうね。子供の声が騒音にしか聞こえない人達や、人間の倍も二倍も辛抱強い犬を、自分より劣っていると思う人達を、少し悲しく思う私です。

花の香りが漂ってます

2016年04月24日 | 日記
 庭のフリージアが満開です。次々に花を付けます。今年は根本に土をかぶせることで、茎がしっかりしました。昨日の雨でも倒れませんでした。妻が花束にして部屋に飾っています。とてもよい香りが漂っています。
 
 私が初めてフリージアに接したのは新婚旅行の八丈島でした。
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ネットのない時代

2016年04月23日 | 日記
 2チャンネル経由で、R25の記事『ネットがない時代の方がよかったことTOP10』を読みました。私のような高齢者は「うんうん、納得」です。
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1位 個人情報の扱いがうるさくなかった。
2位 悪意あるデマが広がり、残り続けることはなかった。
3位 会話が多かった。
4位 メールだけで済ます一方的なやりとりはなかった。
5位 待ち合わせにドキドキがあった。
6位 読書する時間がもっと多かった。
7位 さらされてしまうようなストレスはなかった。
8位 ネットに繋がらない不安はなかった。
9位 ラブレター(手紙)があった。
10位 ITに強い若いヤツに偉そうな顔をされずに済んだ。

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 総じて私達に思慮深さ、用心深さが足りなくなったように思います。昔から「人の口に戸は建てられない」と、噂話は止められないと言われましたが、今ほどではありませんでした。CMの代わりになる、口伝えが真剣に論議された時代でした。
 
 自分の意志を伝えるために、一所懸命話したものです。そのうちに、年齢の異なった人とも話すことができるようになりました。相手の意見も耳に入りますので、己の至らなさを痛感することもしばしばでした。
 
 待ち合わせは充分考え、不測の事態も考えました。女の子とのデートは電車バスの時刻表、喫茶店の休日などなど、事前準備が必要でした。結局待ち合わせが不安で、彼女の家まで迎えに行き、怖そうなお父さんに「帰りは家まで送るのだぞ!」なんて言われて、みょうに嬉しかった思い出。
 
 デートの後はできるだけ早く手紙を書きました。できるだけ綺麗な字で、さりげなく次のデートをほのめかし、でもガツガツしたところは悟られなく、苦労しました。でもその手紙が証拠として握られている以上、お別れは丁寧に恨みをいだかれず合意の元で、なんて思うけど、お互いの熱が冷めると、以外なほどあっさりと終わりました。今のように「コクル」のでは無く、コクル関係になれるか、なれないのかの期間がデートだったような気がします。そんな関係の女友達はいまだにお付き合いしています。もちろん私の妻も知ってますよ。おしまい。

ドラえもんの声を聞く

2016年04月22日 | 日記
 熊本の地震はまだ収束しないようです。昔々、大学の最終学年の頃、私の地方が比較的大きな地震に襲われました。発生の時間は昼休み後の講座中でした。明確に記憶していることと言えば、社会学の講座で、二学部合同の大教室での授業でした。教室は5階でした。突然、グラグラ、ドンドンの衝撃に襲われ、固定された長机にしがみつくだけでした。教授はたしか平山先生でした。先生がマイクを握りしめ、呆然とたたずむ姿を思い出します。『集団心理』などを教わった先生ですが、しばらくは言葉がありませんでした。第一声が「大きい、みんな落ち着け」でした。しばらくして校内緊急放送で震源地が伝えられました。私の生家の近くでした。とっさに考えたのは『電車動くのかなぁ、帰れるのかなぁ』と実に情けないことでした。しばらくして再び放送がかかり、実施中の試験は全て中止、後日再試をおこなう。遠距離通学の者は帰宅準備、本日の授業は、この時間を持って出席とみなす、などなど。電車通学の者は駅へと急ぎました。
 
 電車は遅れていましたがその日のうちに帰宅できました。当時は、このような場合に、無事であったことを知らせる術がなく、家で待つ父母に心配をかけました。
 
 さて、その夜から余震に悩まされました。一晩に数回、遠くから近づく山鳴りが地鳴りに代わり、ガツンガツンと鋭い振動で飛び起きる日々でした。しばらく過ぎた頃から、かすかな山鳴りでも目覚めてしまいました。毎晩ジーンズで眠りましたが眠られず、通学の車内が睡眠時間でした。
 
 今回の熊本震災とは比較にならぬほどの地震でしたが、ずいぶん気が滅入りました。こんな経験から、熊本の方々のご苦労、ご不便を痛感しております。なにもできない私達、せめてドラえもん募金くらいをと、昨晩も電話しました。妻が「今日はドラえもんの声になる前に切れちゃった」とつぶやいていました。私達はそれくらいしか出来ませんです。