蛙の住んでいるムラは1500世帯ほどもある大層大きな「被差別」なのです。
これまでも書いてきましたが、昔からこれほど大きかったわけではありません。
「明治」の初年には30世帯くらいだったようです。
それが50倍になっている。
神戸で一番大きなは番町ですが、ここも「明治」の初年には100世帯くらいだったのが30倍くらいに膨れ上がりました。
「ものの本」によれば、おおよそ中国・四国あたりの「被差別」からの流入と考えられているようですが、それなら「その方面」の「」の顕著な人口減が確認されてもよさそうに思います。実際にはそのような話はない。
「明治」の初め、この国の人口はおおよそ3000万でしたが、現在1億2000万くらいでしょうか。4倍くらいなものですね。
それだから、とても「自然増」ということにはなりません。
資本主義の「発展」にともなってする「人口の都市集中」という以外に考えることはできません。
神戸はそのように「人口」を吸収してきたのです。
それだから、もともと「」身分であった人間は極めて少数なはずです。
蛙の場合、4代くらいまで遡れるので、「生粋」の「民」なのでしょう。
ウチのムラを起点に放射線状に「」ムラが配置されていますが、これは江戸時代、明石藩の下級「司法警察」機関として置かれたものと考えられます。
支配者側の都合のいいように「治安」保持を担ったのですから、近隣の人々から疎まれたのは想像に難くない。
ムラの人々は誇りをもって任務に励んだのでしょう。
蛙は自身のムラの歴史を丹念に調べ上げるつもりはありません。
確認をしておきたいことはムラと近隣地区との対立関係がずっと尾を引いたということだけですね。
資本主義の発展に伴って「零落」した人々がムラに吸収されていき、それなりに裕福な層と「無産の民」との二層構造ができあがったようです。
「大正」末期から「昭和」初年にかけて、「水利権」を巡って大きな闘いが取り組まれました。
当時、人口増に伴って、明石市が急増する水の需要を賄うために「井戸」を掘削したのでしたが、それまで豊かな水量を保っていた蛙のムラの井戸が全部干上がってしまうということがあったのです。
当時、ムラの主だった人々が中心になって、この「水利権」の補償を求めて闘ったわけですが、京都大学の地質学者を招聘しての裁判闘争になった。
「井戸が干上がった」原因は明石市の水源地用井戸・掘削にあるとして闘われたわけで、裁判は和解に持ち込まれました。
この時、井戸が干上がったのはウチのムラばかりではなく近隣のいくつもの村落もまた被害を受けていたわけで、こちらの方は金銭の補償で決着しています。
ウチのムラは、近隣の決着を横目になお粘り強く闘いを継続し、永続的な「水の補償」を勝ち取って「簡易水道」を敷設させるという完全勝利を勝ち取ったのでした。
上限はありましたが、ムラの人たちは生活に必要な水を長く「タダ」で使うことができました。
これを解消したのはごく最近のことで、解決一時金として「一億円」を明石市から出資させ、現在、「基金」として管理しているところです。
この闘いの「顕彰碑」が公民館にありますが、蛙の祖父も名を連ねています。
ここでは確認しておかなければなりませんが、ウチのムラでは「差別に負けて悲惨な生活を余儀なくされている」という状況ではなく、行政と対等に戦える智慧と勇気と力を持つ人々がいたということです。
ただ、この時期は、運動が大きな力を持っていた時代だったわけで、神戸は全体として「融和主義」的な運動でしたから、蛙のムラの勝利も「運動から隔離する」ための妥協であったのではないかと蛙は想像しています。