続・蛙独言

ひとりごと

「どこ」から来て「どこ」へ行くのか 2

2014-06-12 10:50:51 | ひとりごと

祖父についての記憶はほとんど無い。

奥の座敷で、ずっと寝込んだままだったように思う。

前稿でゆうたように「それなりに裕福な家と『無産の民』の二層分解」があったように思われるが、祖父の家はムラ内では大きな方だった。

長屋も持っていたようで、蛙は祖父の家の裏側の長屋で生まれている。

1945年の4月のことだから「戦中派」かもだが、勿論、戦争についての記憶などありようもない。

近くに「川崎航空機」の工場があったから空襲も6月、7月には相当厳しいものがあったらしい。

何遍も聞かされた話だが、防空壕の中で大きな声で泣くものだから、祖父が「Bに聞こえるやないかッ!」と怒って叩かれたりしたのだそうだ。

同級生の中にはこの時の空襲で二親を亡くした子もいた。

祖父は蛙の父親を筆頭に五人の子どもを育て上げた。

生業は商売で、酒・煙草などの専売品と野菜とか豆腐とか、惣菜などを扱っていた。

祖父がどんな苦労をしたのか、聴けてはいない。

蛙が小学校に上がる頃、父はムラの本通りに居を構えて、「米屋」を始めている。

「食管法」の時代だから、「米穀通帳」などの管理もしていたから、「ヤミ米屋」と違って経営は難しいこともあったのではないかと思う。

「米」の他に「薪炭」とか「氷屋」もやっていたりした。

小学校の高学年くらいから「配達」も蛙の仕事になった。

今ほど車が多い時代でなかったから、「配達」は、中学くらいには無免許でバイクに乗ってしたりもしている。

ウチの手伝いをしていて、いつも人に頭を下げていなければならない「商売人」には決してなるまいと思ったものだ。

 

父は、弟たちが立ちいくように、二男には「清涼飲料水(ラムネとかアップルとか)」の製造・販売を、三男には祖父の代からの酒屋・八百屋を、四男は川重の社外工をさせたりもしている。

皆、それぞれ苦労をしたのだろうが、死んでしまったので話が聞けていない。

 

蛙が解放運動に関わる様になってから初めて聞いた話がある。

二男が継いだ「清涼飲料水」の製造・販売はもともと父が始めたのだったが、商売敵から「エッタの水が飲めるかいッ!」などとふれ回られて、近所では商売ができず、随分遠くまで「運搬」と呼んでいた自転車で、販路を求めなければならなかったという。

 

親の苦労など露知らず、蛙は勝手気ままに成人をしていった。


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