続・蛙独言

ひとりごと

混乱する頭

2010-10-11 10:24:46 | 日記
人と会って話をする分には左程には思わないのだけれど、自分の想いを、さて、「ことば」にしようとワープロソフトに向かってみると何故だか知らず「表現を見失ってしまう」そういう日が続いている。
特別な「失語症」なのだろう。
多分、「考えていること」について「自信を持って発言するほどには自身でよく分かっていない」からということだろうね。
第1に考えていることは「資本主義社会の現段階と今後の見通し」という辺りかなぁ。
マルクスの時代にあっては「イギリス労働者階級の状態」などでも明らかなように「厳しいもの」ではあっただろうけれども、世界大で言えば未だ「牧歌的な」時代だったのであって、そりゃぁもう「剰余価値と搾取」という話になるのだろうね。
レーニンの時代には明らかに歴史は1ページ進んだのであって、「帝国主義の時代」だ。
これはもうあからさまな「力」が支配する時代であって「植民地強奪戦争」の時代だったわけだ。
わが「国」も「日清・日露」から遅ればせながらこれに参戦をする。
「一次・二次」大戦を経て、「銀河の歴史がまた1ページ」じゃないけれど、赤裸々な「植民地支配」が打ち破られ、たぶん、ベトナムでのアメリカの敗戦が時代を画するものだったろうけれど、もう1ページ、日めくりはめくられる。
例えば「朝鮮半島併合百年」で明らかなような直截的な「植民地経営」は1945年を境に「一つの時代の終わり」を告げたのだった。
蛙が若かった時には「国家独占資本主義」などという「ことば」が言われた。
元来、市民社会レベルの「資本」の「運動」は「上部構造たる国家」とは相対的に「別のもの」だったろうが、「帝国主義の時代」には「資本によって国家が簒奪をされる」ということになったのだろう。「国独資」とは「そのような特別な時代」の「資本の在り様」だった。
次のページは「新植民地主義の時代」ということになるか。
米ソ両大国の冷戦の時代、ソ連も「社会帝国主義」と呼んでよいと思うけれど、旧植民地主義時代のようなあからさまな暴力は背景に押しやられて、大国の傀儡政権を通じての世界支配ということになっただろう。
現在では「資本」は「国籍」を持たないグローバルで強大な悪魔として君臨をしている。
さて、13億人口を抱えた人民中国をどう評価するべきだろうか。
紅軍に支えられた一党独裁は破綻することはないのだろうか。
蛙には相当長い期間、この「反・人民」「中国」が「生きながらえる」ように思われてならない。
(つづく)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。