「旧ブログ」では書いてきたことだけれど、蛙は「解放運動」には随分遅れて参加したのだったから「同盟」が「燎原の火のごとく」という勢いで「力」を拡大し「同対審答申・特措法」を獲得し「大衆的な糾弾闘争」を展開していた時期を知らないのだ。
それだから、現在の「解放運動」について「ああだこうだ」などと「ブログ」で書いたりしているけれど、幾分、自信の無いところはある。
その現場にいた人が、「その時代」の「総括」をきちんとやってくれればいいのだけれど、「全体的な視点」からの論稿は見当たらない。
西岡智さんの「荊冠の志操」が、ちと面白いか等とは思うけれど…
蛙が初めて「同盟員登録」をするのは1972年のことなのだが、その「支部」は「日本共産党の日本共産党による日本共産党の為の支部」であったから、そのとき既に「同盟主流派(日本のこえ)」対「日共」の対立は決定的なものになっていて、「解放運動とは差別を無くするための組織なんだ」と考えていた蛙には「状況が皆目分からない」ということだったのだ。
訳も分からないままに最初の5年ばかりはムラの「悪ガキ」どもを相手に「シンナーをやめさせること、きちんと仕事に就かせること」を自身の課題にして、それこそ「不眠不休」の取り組みだったのだけれど、遂に一旦「ツブレテ」しまう。
この後、神戸の同盟は「全体として」「正常化連・全解連」へ移行をしていくのだが、その中でも「中央」、西岡さんや大賀さんと繋がっていた「若い連中」は「日共」の悪辣な攻撃に抗して「本物の運動」を再建していく。
実は、この流れにも蛙は乗り遅れている。
「子育て」に専念していた、というのが「言いわけ」…..
ようやく蛙が復帰するのは1991年、ウチのムラに「支部」を再建する時だ。
例えば「八鹿」などは1974年の話だし、同盟兵庫県連内での「ゴタゴタ」、「刷新運動」などという話も事情は蛙には皆目分からないのだ。
というわけで、「同盟兵庫県連」内部では、蛙は、左程の人から「信頼」を受けてはいない。
何せ、重要な「現場」には居合わせていなかった人間なのだからだ。
けれども、「何をぬかすかッ!」ちゅうような想いはある。
現在の県連の運動には「わくわくするような魅力」などひとつも無い。
ただ、「あの時代」の惰性だけでもっているだけではないかッ!
蛙には「未来を切り拓いていくぞッ!」という信念が誰にも負けないくらい強くある。
「過去」は過ぎ去ったことだ。
「未来」が「展望」できるかどうか、ここが勝負なのだ。
それだから、現在の「解放運動」について「ああだこうだ」などと「ブログ」で書いたりしているけれど、幾分、自信の無いところはある。
その現場にいた人が、「その時代」の「総括」をきちんとやってくれればいいのだけれど、「全体的な視点」からの論稿は見当たらない。
西岡智さんの「荊冠の志操」が、ちと面白いか等とは思うけれど…
蛙が初めて「同盟員登録」をするのは1972年のことなのだが、その「支部」は「日本共産党の日本共産党による日本共産党の為の支部」であったから、そのとき既に「同盟主流派(日本のこえ)」対「日共」の対立は決定的なものになっていて、「解放運動とは差別を無くするための組織なんだ」と考えていた蛙には「状況が皆目分からない」ということだったのだ。
訳も分からないままに最初の5年ばかりはムラの「悪ガキ」どもを相手に「シンナーをやめさせること、きちんと仕事に就かせること」を自身の課題にして、それこそ「不眠不休」の取り組みだったのだけれど、遂に一旦「ツブレテ」しまう。
この後、神戸の同盟は「全体として」「正常化連・全解連」へ移行をしていくのだが、その中でも「中央」、西岡さんや大賀さんと繋がっていた「若い連中」は「日共」の悪辣な攻撃に抗して「本物の運動」を再建していく。
実は、この流れにも蛙は乗り遅れている。
「子育て」に専念していた、というのが「言いわけ」…..
ようやく蛙が復帰するのは1991年、ウチのムラに「支部」を再建する時だ。
例えば「八鹿」などは1974年の話だし、同盟兵庫県連内での「ゴタゴタ」、「刷新運動」などという話も事情は蛙には皆目分からないのだ。
というわけで、「同盟兵庫県連」内部では、蛙は、左程の人から「信頼」を受けてはいない。
何せ、重要な「現場」には居合わせていなかった人間なのだからだ。
けれども、「何をぬかすかッ!」ちゅうような想いはある。
現在の県連の運動には「わくわくするような魅力」などひとつも無い。
ただ、「あの時代」の惰性だけでもっているだけではないかッ!
蛙には「未来を切り拓いていくぞッ!」という信念が誰にも負けないくらい強くある。
「過去」は過ぎ去ったことだ。
「未来」が「展望」できるかどうか、ここが勝負なのだ。