続・蛙独言

ひとりごと

蛙の「部落問題原論」 4

2011-05-26 18:18:32 | 日記
蛙が子どもだった頃には「同和教育」なんてものはなかったんだね。
60年も前の話だから…
小学校は全国的にも珍しい「の子だけ」が通う学校であって、ウチと西宮の2校だけだったらしい。
入手している史料からは「こと」の経緯は明らかではないが、この「小学校の建設」が、「差別に抗して」自分たちの子弟の教育権を守る闘いの中で勝ち取られたものであり、ウチのムラは大層大きな集落でもあったから可能だったのだろうが、それ程にも強い「反差別」の熱情を親たちが持っていた証だろうと考えることはできる。
初めはムラの「お寺」が小学校になったらしい。
との連携は見られないが(蛙の見るところ「反」だったように思われる)、「大正」末期から「昭和」初期にかけて「水利権」を巡る行政闘争が粘り強く闘いぬかれ、「完全勝利」を勝ち取っている。
この話も改めてってことになるけれど…
「人間の本性」であるだろうが、「苛烈な圧制」の在るところには必ず、それに対抗する「過激な反差別・反権力の闘い」は生まれる。
「指導者」は、その「時代」の要請のもとに産み出される。
それだから、「支配層」は可能な限り「平穏な」支配の「仕組み」を作り出さなければならない。
「徳川」が300年も続いた意味は、そこいらへんにも秘密はあるのだろうと蛙は思う。
もう一つ。
「被支配層」の間に「分裂」を持ち込むこと。
強固な「身分制度」を形づくること、なかんずく「人外人」、「エタ・ヒニン」の制度を設けたことは支配者の支配の維持に決定的な「保障」となったろう。
今では、この「政治起源説」はたいそう評判が悪いけれど、その意味はしっかり押さえておかなければならないと思う。
「初期同和教育」の時代、「差別」の説明として「江戸時代、支配を維持し、支えるために『士農工商・エタ・ヒニン』という身分制度が作られた」、「」の人々は「差別され惨めな生活を余儀なくされた」、「人が作ったものなのだから人が無くすることができるはずだ」、といった単純な話が流通していたのだけれど、「これはちょっと事実とは違うのではないか」ということで現在では省みられることはないらしい。
勿論、事実に背反するところはあるが、その「意味」において受け継がれるべきことはある。
「たらいの水と一緒に赤ん坊も流してしまう」って話だね。
レーニンを読んでるとこの「例え話」がよく出てくる。
江戸時代の「身分制度」は、それに先立つ「時代」から都合のよいところを受け継いで「暫時的」に形成されたものであり、ポイントは「差別・賤視観念の利用」ということになる。
どういった人々がその対象に選ばれたかは、網野さんやほか、たくさんの人が書いているのでそちらを参照されたい。
「明治」に入っても、この「賤視観念」は生き続けることになる。
(つづく)