続・蛙独言

ひとりごと

雨が続きますね。

2011-05-12 12:25:20 | 日記
厭な雨が続きますね。
台風から変わった熱低と前線のせいらしいけど、3日間は降り続く様です。
「晴耕雨読」というところですか。
蛙は相当、本を読む方なのだろうと思いますが、酷く「傾向的」。
これまでも言ってきたかと思いますが、分子生物学・生命科学という辺りでは、池田清彦・柳澤桂子・中村桂子、それに多田富雄といったところですし、言語学では田中克彦、それに物理学全般てなところかなぁ。
と言っても「専門的」ってなところではなく「一般向け・教養」的なものですけれどね。
それで、なにか身に着くことはあるかってえと、たいしたことではありません。
けれども、大切にしていることは、「もの」とか「こと」とかに対する「姿勢」、「考え方」とか「方法」について学ぶということでしょうか。
肝心の「問題」では、気にいった「本」が皆無というところで、「情報収集」くらいな「読み方」です。
こう言っちゃなんだけれど、大学の先生やってる人で「問題」をきちんと整理でけてるって殆どいないんじゃないかしら。
何が気にいらないかって言えば、「部落史」などと言って、歴史全体の中で「それ」を位置づけることをせず、なにか「特別なもの」であるかのように取り扱う、その「姿勢」ですね。
こうしておけば「問題の専門家」を気取ることができるわけですから。
同盟の側にも「二つの傾向」はあります。
今回の「綱領改訂」論議でも、兵庫や広島からは「階級的な視点」を「はずしてはならない」というような主張があったけれど、大阪を中心に「それはあるかも知れないが、基本的には『現体制』のなかでも問題の解決は可能なのだということはあるはず」ってことで集約をされました。
「ここ」はたいへん難解なところなのだろうと思います。
蛙も迷いに迷うところですね。
ただ、「運動論」として、集約された「中央見解」だと、例えば「政党政派を越えて『人権派議員』を国政に送り出すこと、それを『議員連盟』として一本に組織化すること」などといった課題に力点が置かれることになる。
「ホンマかいな?」なんて蛙は思う。
「暫時的な前進」は期待できるかも知れない。
それは大切なことだ。

以前、藤田敬一とそのエピゴーネンから「おみゃぁのその態度が傲慢っつうんだよッ!」って言われたことがある。
蛙はこう言ったのだ。
「解放運動はの時代から含めて、この国の被差別民衆の闘いの先端を切り開いてきたのであり、アイヌや障害者、沖縄、「在日」などなど、差別と闘う全ての人々を勇気づけ、戦線の構築を促してきたのだ」と。
蛙は「解放運動の側に主体的にそのような認識がなされていないこと」を嘆いてそのように言ったのであるが、藤田等は「反差別運動の前衛としての解放同盟の先駆性を認めよ」と蛙が言っているかのように受け止めたようだ。
事態がどのようであれ、同盟の闘いの成果が被差別民衆の側で積極的に受け止められたという事実は紛れもないことだろう。

「暫時的な前進」と「根本的な解決の糸口をつかむ作業」とは相対的には別のことだろうと蛙は考える。
けれどもそれらは「対立するふたつのこと」ではないだろう。
ずっと昔、「解消論」というのがあった。
根本は「階級矛盾」なのであり、全てはそこに集約されなければならないという主張だったろう。
広島県連は「身分と階級の統一的理解」という風に言うが、それも「言ってみるばかり」にとどまっているのではなかろうか。
問題は「その具体的な中身」であり、運動の「中心的課題の提起」なのだろう。
多分、中央本部にはそのような考え方は無いようだが、「反差別全国(或いは国際)統一闘争」の構想に鍵があるのではないかと蛙は考えている。