続・蛙独言

ひとりごと

保存のために 2

2020-06-02 20:36:36 | ひとりごと

「続・蛙独言」2

「違い」について

2009-10-15 19:45:40 | 日記

生まれおちた「人」の原初体である「あかちゃん」は、どのようにして「成人」していくのだろうか。
蛙は、「差別問題」を考える上で「ここが重要」と考えている。

我が子の「育ち」を振り返ってみるのだけど、もう30年以上も前のことになるのだから、それは「遠く、濃い霧の中に包まれているよう」で、よく分からない。
そこいくと、「孫」のことは「よく見える」ように思う。
埼玉に住んでいるので蛙との距離は遠いが、「IT革命」ということか、「スカイプ」という無料の「テレビ電話サービス」があるので、週に一度くらいは2時間ばかり「孫」と遊んだりしている。
この「システム」は実に優れモノだ。
無料ってのがいい。
上の子は4歳になる。
下の子はまだ10カ月ばかり。
上の子とは、もう一人前な「ことば」のやり取りができる。
ハモニカも随分上手に吹けるようになっている。
下の子はまだ「ギャーギャー」喚いているばかりだけれど、一つひとつの「音韻」は「はっきり」しているから、「ことばを獲得していく」過程には何の問題も無いように思われる。
ここではもう「聴覚」に「障害」があったり「脳機能」に「不都合」があったりすれば、明らかに「マイノリティ」の側に立たされることになるが、蛙の「孫」たちにはそういう兆候はないようだ。
おおよそ3歳までに「脳」と「神経系」の「接続」が「完成」されると言われている。
「人」が形成されていく過程は、おおまかなプログラムが遺伝子レベルで用意されているのだけれど、どのタイミングでどんな風にということは、「順次、状況に応じてスイッチが入っていく」ということに係っていて、「同一のもの」ということが一切無い。
「一卵性双生児」でもそうだけれど、極端には「クローン人間」が実現されることがあったとしても、決して「同一」ということが無い。
大木の数多の葉の葉脈にも、人間の「指紋」にも「同じもの」は決して無いのだ。
「皆が皆、違っている」のが当たり前なことなのだけれど、そのようには「人」は「教育」をされない。
最悪なことに、この「人間世界」では「違っている」ことを忌み嫌う「文化」がある。
「ここ」が「差別」の「始まり」なのだと蛙は考えている。

 

初めに躓いてはいけない

2009-10-16 20:07:32 | 日記

衆議院選挙は民主党の圧勝に終わったのだけれど、蛙は「あまりに永く続いた自民党を主軸にする政権」の「負の遺産」を受け継いでの出発なのであるから、大きな期待を持ってはいないということを言ってきた。
新しい「政権」の「政治哲学」は奈辺にあるのかも分からない段階だから、今の時点で、とやかく論評はできないのだけれど、ここにきて早速の「腰砕け」みたぁな話が出てきているのは悲しい限りではある。
鳩山君は「国民の意思が『赤字国債』は許さないということであれば『マニフェスト』の一部割愛もありうる」などと言っているようだ。
旧政権から引き継いだ「借金地獄」だけれど、そもそもそれはゼネコンを初めとする大企業と「銭ゲバ官僚」の「金儲け」のために結果したことなのであるから、「国民のための政治」に舵を切るならキッパリと「赤字国債も辞さず」というべきだろう。

あまりよくは見えていないが、「東アジア共同体構想」などということも言われている。
それがどのような意味であるかは今のところ不分明だけれど、榊原英輔氏の著作を何冊か読んできて、成程、彼がブレーンだと言われているのはこのことかと蛙は納得している。
反体制・反権力を標榜する蛙とは対極にある榊原氏ではあるが、彼の主張は概ね首肯できるだろう。
圧倒的な「経済力・軍事力」を以って「世界」を牛耳ってきたアメリカに対抗して、ヨーロッパは「EU」という選択肢を選んだのだが、榊原氏の持論は「EU」の「アジア版」の構築ということだった。
アメリカはあからさまな「不快感」を示しているし、当のアジア各国も、それがあの「八紘一宇・大東亜共栄圏」構想とどう違うのか、疑心暗鬼というところだろう。

「資本」に「国境」などというものは無いということは、もともとマルクスが言っていたことだ。
それだから、プロレタリアートの闘いもまた「インターナショナル」が必然なのだということも。
「マルクス以降」の「資本」の側は、マルクスから最もよく学んで、その「危機」を「一国主義的」に回避する道を選んできた。
労働者階級の側は、その「インターナショナリズム」が、「ソ連邦のソ連邦によるソ連邦のためのコミンテルン」に変質をさせられ、徹底的な敗北を喫した。
けれども、時代は進んで、「資本」の側は、「一国主義的対応」で延命を図ることはできない段階に達している。
今、この「国」の労働者は、何年も前から「資本」の側が先行して展開してきた「彼らなりのインタナショナリズム」によって、「賃金切り下げ」攻撃にさらされている。
この「国」の労働者階級が、アジアの民衆との連帯を築こうとしなかった「大いなる罰」なのだ。

榊原氏の構想を逆手にとって、アジアの民衆との恒常的な連帯の闘いを目的意識的に追及する、そういう土壌は既に準備されている。

今のところ、皆目、その兆しは見えないが、必ずそのように事態は展開するだろう。

アメリカに対抗し、内需を中心にこの「国」の経済が活性化されれば、現在の懸案事項も、この10年以内には必ず解決するだろう。
それが、「資本」の側の「思い通り」ということになるのか、労働者の側の「大いなる前進」ということになるのか、気がもめるところではあるが、そのような問題意識が希薄なのであるから、蛙は鬱々として眠れないのだ。

 

 

昨日と今日と

2009-10-18 19:04:14 | 日記

昨日は『在日朝鮮人歴史・人権週間』関西集会というのに出ていて、本日は同盟県連主催の「連続理論学習会」ということで、黒川みどり氏の講演を聞いたり、ちと忙しかったね。
仕事を終えてからの参加だったし、疲れるよ。
前者の集会では、最後の「意見交換」というところで、司会の側から会場にふられたのだけれど、こういう場面で一発目に発言するのは、なかなかたいへんだ。
で、誰も手が上がらないから、蛙が発言をする破目になった。
相当の聴衆の前で発言をするのは緊張もするし、前もっての準備なども無い場合、難しいものだ。
「この日」の蛙の発言について、何人かの人に聞いたんだけれど、「まぁ、まとまってたんじゃない」って評価だった。
ゆうた内容は、「蛙が若かった頃には『在日』の問題は左程『日本人』の間で重要なこととして取り上げられてこなかったように思う。自分自身の経験としても、例えば、会社の慰安旅行のバスの中で『勝新』の『兵隊やくざ』などというバカげたビデオが流されていて、『慰安所』の前に、それも寒さに震えながら兵隊たちが並ぶシーンを見たが、自分はただ単純に「馬鹿な話」くらいに受け止めて流してしまった。
「従軍慰安婦」という「ことば」は蛙は嫌いで、「軍事性奴隷」というべきなのだろうけれど、この『被害』にあった人たちが声をあげて初めて、その「シーン」の意味をやっと理解しえた自分をとても恥ずかしく思う」
と、いったようなことだった。
さて、今日の黒川さんの講演だけれど、蛙には納得のいかない話が多かった。
好意的に評価するとすれば、「差別は、差別する側で、時代の変遷に応じて、都度々々、その『呼称する』『徴し』が『作り変えられてきた』のではないか。そのことにもっと注目すべきではないか」ということなのだろうか。
そういう限定付きであれば、「問題を考える新しい切り口」として評価は出来るかも知れない。
黒川さんの講演から感じた疑問など、この後、何回かにわけてUPしておこうと思う。

 

 

前稿で「つづく」ってゆうたけど、「講演」を聞いて、コツコツ、引っ掛かるところもあったし、向学さんの「黒川批判」を読んでいたり、とりわけ、ネット上で閲覧できる「藤田敬一とのやり取り」などには大きな疑問符のつくところであったから、色々、思うことをUPしていこうと考えてたわけだ。
でも、講演という形式では、話者の側でも充分意は尽くされていないということもあるだろうし、聞き手の側でも誤解はよくあることだから、一度、それなりな「著書」を読み終わってからにした方がいいように考えた。
で、ならば、蛙の「考え方」を一から書いていった方が、「黒川氏」との対比ということになるのかも知れないと考えて「方針転換」しようと思った。

まず第一には、「被差別は存在するか」という設問から始めよう。

蛙の答えは「NON」。

ここは難しいところだけれど、勿論、「差別」は存在する。
これを否定しているのは日本共産党だけだろう。
彼等も完全に皆無って言ってるわけではないが、「それは『遅れた考え』を持つ一部の人々の中にあるだけで、民主主義の側に立つ人々の広範な努力で、そのような『考え方』を孤立させ『絶滅』させていくことができる。問題は、既に『解決済み』のことを仰々しく取り上げて『利権あさり』に狂奔する『解同』の存在であり、これを『殲滅』することが最重要な課題である」という主張になる。
それだから、同盟と日共とは「不倶戴天」って関係になる。
誠実な人々からは、「一致するところで共同行動を」などと言われたりするけれど、共産党の側が態度を改めなければ、一歩の前進も望めない。

「差別」は存在するのに、「被差別は存在しない」という蛙の主張は「矛盾」していると思われるだろう。
然り、これは「矛盾」である。
普通、人々は「矛盾はあってはならないもの」と考えているのだけれど、現実には「矛盾」は存在する。
マルクス主義を学んだことがある人なら、このことは常識ということになるし、それを正しく捉えまえる「方法」の内に「解決の鍵」があるということを知っている。

旧ブログでも言ってきたが、蛙は「被差別」は「他称語」であると考えている。
詳しくは、後述することになるが、それはただ「他者」から「そのように呼ばれている」ことによって「あるように見える」存在であるに過ぎない。
そのものの内実に「差別を受けなければならない」根拠は何もないからだ。
例えば、「実態的差別が心理的差別を生む悪循環」などという言い方があるが、これ程、人を馬鹿にした論法は無い。
蛙の親の世代では、勿論、ムラはたいへん貧しかったが、それだからと言って「貧乏人を差別してよい」という法は無かろう。
「差別」は「差別をしたい人」が「作る」だけのことなのだ。

 

一から始める蛙の解放理論 1

2009-10-23 17:58:54 | 日記

明日から三日間、広島県は福山市で「解放全国研究集会」ってのがあるんで、ブログの方は「お休み」ということになる。
常時使っているのは「ノート」なんだから、持っていってもいいんだけど、1キロを超える荷物はやだからね。
この「集会」、最近、あまり面白くないというか、そんなに「収穫があった」ってこともないんだけど。

さて、「被差別は存在しない」というのであれば、「解放運動」などというものは「意味無いんじゃない」ってことになるかって話をしておこうと思う。

「被差別」と「呼ばれる」地域には、内在的に「差別されて然るべき根拠」は無い。
にも拘らず、この地域に暮らす、或いは、この地域の出身者である人々に対して、「」とか「四つ」などなどという「差別言辞」が投げつけられ、「忌避・排除」ということになる現実はある。
「ならば」その「現実」を「引き受けて行こうではないか」、「そして」そのような「現実」を「白日の下に晒して」、それがどれほどの悪辣な「犯罪的行為」であるかを万人に知らしめていく「徹底糾弾」の闘いを「推し進めていこうではないか」、これが「解放運動」なのだと蛙は考えている。
「」の「意思」も「ここ」にあった筈だ。

「宣言」は、当時、想像を絶する「残虐・冷酷・非道」なものであった「差別」に抗して、「団結して闘おう」という「呼び掛け」であったし、その「現実」を主体的に引き受けて、なお、その先の「吾等は必ずや勝利するに違いない」という「希望」を「指し示した」ものであったのだから、全ての「大衆」を鼓舞し勇気づけたのだ。
それは「言葉にならぬ」程の感動をもって受け止められた。

ただ、と蛙は考える。
「その意気やよし」ということはあるが、「時代」は大きく変わったのであるから、今、必要とされているのは、この「時代」に相応しい新しい「解放宣言」なのではなかろうか。
何事も「歴史的な制約」ということはあるのだ。

「宣言」には「解放の理論」の裏付けは無い。

蛙が一番厭な「台詞」は「であることを誇り得る時がきたのだ」ってところだ。
これは「その時代」には「大衆」を大きく鼓舞し、勇気づける「アジテーション」として多大な有効性を持ったことは間違いないが、この「台詞」のせいで、今でも「民としての誇り」などという発想が通用しているのは「いかがなものか」と思う。
蛙は、差別に抗して生き抜いてきた「我が父・母」を誇りに思っているし、「ここ」まで「闘い」を導いてきてくれた先達を「誇り」に思っているけれど、それは「民の誇り」などではなく、「人間としての誇り」ということなのだ。
ここのところは、友井さんと話していて、「完全に一致する」ところだということも書いておこう。

 

一から始める蛙の解放理論 2

2009-10-26 18:27:29 | 日記

「福山全研」は、もともと大きな期待を持っていなかったから、「まぁ、こんなものかね」ってことだった。
メインスローガンとして「差別・貧困・格差を打ち破る・・」があげられていたが、その三つの語句が「並列」されること自体に蛙は酷い違和感を覚えるのだが…

それはともかく、始めたシリーズを続けよう。

前稿にジゲ戦記のブーさんからコメントがあって、その「ブログ」を読ませていただいたが、
「差別は何事も根拠のある『ちがい』をめぐる事柄であり・・」
という辺り、蛙の考え方を少しく書いておこうと思う。

「被差別」とそれ以外との間には「何の違いもない」ことは強調されなければならない。

随分以前になるが、全解連の機関紙「解放の道」の記事で、滋賀大の梅田修氏の講演と聴衆の反応を読んだことがある。
氏は「解同の『問題理解』は観念論である」と言い、聴衆からは大きな拍手があったというような記事である。
日本共産党とそれから派生した「共産主義を標榜する」各種「党派」の間では、「観念論である」というレッテルを貼りさえすれば「敵手」を「片づける」ことができ、自らを「科学的党派」=「正義と真実の護り手」と宣言することになるといった馬鹿げた話が通用している。
これをしも「俗流唯物論」という。
これらの人々は、一度もマルクス主義の原典を読んだことがないということを、自身で証明しているようなものだ。
マルクスもエンゲルスも「観念論と唯物論」については、ただ、「物質的存在が第一義」だと言っているだけで、「観念」についても重要な分析・考察を繰り返し論じてきている。

さて蛙が言おうとするところであるが、「差別は、この『国』の人々の『観念世界』の中にしか存在しない」ということだ。
これは、同盟の「考え方」にも背反する。
30年乃至40年前の「被差別」の現実は「万言を以ってしても言い尽せぬ」程の厳しいものであったので、同盟は「差別は、人々の中にある、遅れた『観念』だとすることは間違いである。差別は、現にある『実態』そのものなのであるから」とし、その「改善」、「格差解消」を目指して運動を進めてきた。
その成果は、大きく評価しなければならないが、仮に「格差」が「完全解消」されたとしても、なお、「差別」は無くなりはしない。
蛙は最初に「ボタンの掛け違え」があったと考えている。

最重要な問題は、人々の間に「骨の髄まで沁み込んでいる『天皇制』」だろう。
蛙は、その克服無しには「目的」は達せられないと考えている。
全ての「非合理主義・神秘主義」の淵源はここにある。

蛙がウロウロしている「サン地下」などでも「1街区」から「10街区」まで商店が立ち並ぶが「4街区」と「9街区」は無い。ホテルや病院などでも「4階・9階」が無かったりすることはよくある。「4」が「死」を「9」が「苦」をイメージさせるというのだろうが、「死」や「苦」を「忌み嫌う」文化は馬鹿げていよう。
「ひのえうま」についても以前、言及したことがある。
あれこれ、挙げればきりが無いが、この「国」の文化の総体が「差別」を生み出していく構造を持っているのであるから、目指されるべきは「文化大革命」ということになるだろうと蛙は思う。
「文化」とは民衆の「観念」の総体であり、その徹底的な批判の中からしか、展望は開かれない。

再度言うが、「被差別には『差別されて然るべき根拠』など何もない。」
「被差別」とそれ以外には何の違いも無いのである。

 


保存のために 1

2020-06-02 12:41:25 | ひとりごと

「続・蛙独言」を書き始めたのは2009年10月5日だった。

それまでNiftyで「蛙独言」と題して随分長くブログを続けていたのだけれど、Niftyを解約した途端に自分のブログさえ見れなくなってしまった。

パソコンのこと、よく分かってないから、こんなことになるんだねぇ。

 

https://blog.goo.ne.jp/tadokorokaeru/e/646b7217cb4258a760e08e5c519cab93

 

で、11年書いてきているこの「続・蛙独言」もgooとの契約が切れたら(蛙が死んだらということ)消えてしまうのも残念だから、「大切そうなもの」だけ選んで、ワードの方にコピーを残しておこうと思う。

 

ここから

本名ではないのですが、30年来、田所蛙治という名前を使ってきています。
本名より、こちらの方が「ずっと好き」ってこともありますが、解放同盟の下っ端の役職などもやっていることもあり、本名の方は「そちら」での責任も抱えることになりますから、田所名では「好き勝手」なこと書いていこうという作戦なんですね。
まッ、ぼちぼち、ということで。

 

名前のこと

2009-10-13 17:13:22 | 日記

「田所蛙治」宛で郵便物は届いていたのだけれど、「郵便事業自由化」ということで、宅配の業者の参入ということになって、こちらのは「送り主」に返送されてしまうようになった。
「札幌自由学校『遊』」の「準会員」になってるんだけど、これは「クロネコ便」を使ってて、「本名」の方も併記して「○○方」っていう具合にしてる。
「ここ」の取り組みはとても素敵で、勉強になるんだけど、まさか神戸から札幌にはおいそれと行くわけにいかない。
残念なことだけどね。
「ここ」から送られてくる「資料」は随分勉強になるから、年間3000円の会費で「準会員」登録するのはお薦めだ。

2004年の12月、旧ブログ開設の折に「名前について」ということでUPしたのを再録しておこう。
 ぼくが「田所蛙治」という名前を名乗ったのはもう30年以上も前のこと。
 当時、ベトナム戦争は凄惨な状況を極めていた。
 ぼくは為す術もなくウロウロしているばっかりだったけれど、そして結局何かができ

わけではないけれど、「考え得ること」はやってきたと思う。
 立ち止まったことは一度もない。
 チェ・ゲバラは「第2、第3のベトナムをッ!」って叫んでいた。
 この時のスローガンに「ベトナムはベトナム人の手にッ!」というのがあった。
 今なら「アフガンはアフガンの人々の手にッ!」「イラクはイラク人の手にッ!」ということになる。(民族問題など複雑な状況もあるから単純にはいかないかも知れないけれど)
 「田所蛙治」はこのスローガンの翻訳ということだ。
 「田んぼは蛙にッ!」ってわけ。
 「蛙」についての「思い入れ」が、ぼくにはあった。
 芥川龍之介の「河童」では、河童は「お前は蛙だッ!」という「差別的言辞」を吐かれて、悩み苦しみ、ついには「死」に至ることになる。
 高校生の時に読んだのだ。
 当時のぼくにとっては「蛙」は「エタ」に当たる。
 「そこ」を突き抜ける「思想」が若かったぼくには必要だった。
 うまく「想い」は表現できないが、「田所蛙治」という名前は、ぼくにとっては相当重い意味がこめられている。
 サッカー人気の中で、小中生の中には韓国プレイヤーの名前も浸透してきている。
 今では、在日の3世・4世が「二つ名前を持っている」ことについて、若い世代に「かっこいいじゃんッ!」という雰囲気もあると聞いた。
 けれども、当事者にとって「本名を名のる」ことは今でもたいそう重い。
 「アイヌモシリ」でも「ウチナー」でも「チョソン」でも、「名前」は「日本国」の権力によって奪われてきた。
 「名前」を取り返すこと、「文化」を奪い返すこと、それらは重要な課題であるだろう。
 「千と千尋」でも、支配は「名前を奪われる」ことで貫徹をされ、「名前」を取り戻すことによって「自由を奪い返す」ことが可能だったというテーマも重要な伏線として置かれている。
 それだから、「ハンドル」とか「ペンネーム」などと「ヤワ」な話は「やめてくれッ!」ということも分からないではない。
 けれどもちょっと待って欲しいとぼくは思う。
 「名前」とは何だろうか。
 親は我が子の誕生を言祝(ことほ)ぎ、その生涯に「幸多かれ」との「想い」を込めて「命名」をするのだろう。
 けれども、それは「戸籍」に登録をされ、「支配の枠組み」に組み込まれていくことでもある。

 「名前」なんて「識別記号」に過ぎないとぼくは思う。
 昔、「幼名」というものがあって、「元服」の折に「名乗り」があったのではないかとぼくは思っている。
 それだから、誰もが、自由な意志で「自分の名前を選んでいく」、そういう風になればどんなにいいだろうと思うのだ。

 


駅前まで

2020-05-28 09:37:15 | ひとりごと

昨日、明石駅前のジュンク堂、開いてるかなぁと思って、久しぶりに外歩きにでました。

「デコちゃんが行く 袴田ひで子物語」を買おうと思ったのでしたが、「在庫0冊」でしたから、ちょっと見て回って、「世界屠畜紀行 内澤旬子」というのを見つけて買ってきました。

解放出版社の本です。

なかなか面白そうです。

読み終わったら、また感想をUPします。

 

「デコちゃんが行く」は「ヒントブックス」さんにお願いしました。

下記、URLが「ヒントブックス」さんのHPです。

 

http://19san.com/?page_id=338


ハリーポッターのこと

2020-05-17 20:59:22 | ひとりごと

高校生の頃だから半世紀以上も前のことになるが、大学入試のため英語の力をつけようと思って、原書をよく読んでいた。と言っても内容をよく理解していた訳ではなくて、だいたい「あらすじ」がつかめたら十分という読み方だったから、辞書をひかずにだ。

シャーロックホームズとかフレデリックフォーサイスのを読んだ記憶があるが、本はどういうわけか見当たらない。

ハリーポッターを最初に手にしたのは1999年のことだったと思う。

本屋に平済みにされていたのを、少し立ち読みをしたのだが、これは凄く売れるだろうと直感した。

早速買ってきて一気に読んでしまった。

魅せられてしまった。

元町商店街の「丸善」(今はもうない)の3階で洋書をよく買っていたから、第2巻の訳が出る前に「・・and the Chamber of Secrets」を手に入れた。

今はコロナのせいで、ウチに閉じこもっているので、も一度、読んでみようと思って引っ張り出してきて、目の前にある。

日本の「本」は紙質がいいので、そんなことはないが、洋書のペーパーバックは20年経って紙が変色してしまっている。

洋書のペーパーバックで有名なのはペンギンブックスだろうが、これはBLOOMSBURY出版で、HARRY POTTERは、ここが版権を持っている。

このシリーズは本もDVDも全部持っている。

何故、第2巻なのかと言えば、ここには「hare lip」という言葉が出てきて、訳者はこれを「みつくち」と表記した。

「口蓋裂」という先天性の胎児性「障害」なのだが、たいへん稀なものでもあるし、今では出生するとすぐ「手術」をしてしまうので、見ることはない。

この訳語の差別性を認識していなかった訳者は、当事者団体から抗議されて、この「行」を削ってしまった。

蛙のは「2巻」の「初版本」だから、削られる前のものだ。

それは削ったらいいというものではなく、そんな差別があることを知らなかったこと、当事者・当事者団体に不愉快な想いをさせたことを誠実に反省をし、以降、人権問題に深く思いをいたすべきことが求められたのだと蛙は思う。


最後に

2020-05-14 19:32:50 | ひとりごと
パソコン歴も30年は超えたろうから、相当なもんである。
ところが、我流でやってきたものだから、実は皆目分かってはいない。
このところ、体調が悪くて「もっと前に」とは思うのだが、思うにまかせない。
「解放運動」について、新しい時代に見合った理論をと考えて、ブログで色々書いてきたが、それもストップしたままだ。
以前に書いたのを一部、再掲することから初めて、少しでも前進していきたいと考えた。
以下、過去の文章から。
Yさんからお葉書をいただいた。
蛙からのメールと購読カンパの受領という内容で、こういうのって大概メールで済ましてしまうものなんだろうと思うけれど、「昔人間」なんだなぁって思う。
蛙は年賀状は勿論、一切、「私信」として郵便など使うことがないのは「無精者」なんだからだろうね。
葉書には二つのことが書かれていた。
ひとつは、「独自の解放論」を蛙が展開しようとしているようだが、「いつも途中で尻切れトンボになっている印象」という話。
それは自分でもよく分かっていることなのだけど、基本的には「総体としての『歴史』或いは『世界』の根本的変革」が可能であるか、そういう中でしか「人間の解放」はあり得ないのではないか、そのような「たいそれた枠組み」で考えていこうとしているということもあるからだ。
これまでの「ブログ」でフーコーの「監獄の誕生」についてふれたことがあったが、「被支配」の側の「身体」が「支配」の側に迎合していくように「構成」されていくメカニズムこそ、決定的に重要なことなのだろうと思っている。
「いじめ」などについて考えてみても、「明治」以来、「学校教育」の果たす役割の持続性の故であるのであるから、これはもう「解体」或いは「破壊」をおいてほか脱出の術はないのではないかなどと、できもしないことを主張していたりもするわけだ。
また、世界史的現段階は「ブルジョアジー対プロレタリアート」という構造を突き抜けて、「新しい時代」ということになったのではなかろうかという想いもあって「アントニオ・ネグリとマイケル・ハート」の仕事を理解しようと努めているところでもある。
というわけで、「尻切れトンボ」は今後も当分続くことになる。
またひとつには
「の子ども達の中から医者や弁護士を生み出すことは高名な解放理論家であるO氏の『夢』でしたが、実際に弁護士になった橋下の『裏切り』をどう捉えておられるのか。どこに間違いがあったのか。そういうことを蛙氏に解明してほしいな、と前から思っていた..」
という話もあった。
O氏って大賀さんのことなのかと思うが、蛙はその「夢」が「どのように語られたか」を知らない。
朝田善之助の3C(教師・弁護士・医師)運動を随分以前に批判したことがあったのだけれど、の子どもたちがそのような力をつけていくことに反対するわけではない。
そのように力をつけても「差別を無くしていこう」とする側に立ちきることがなければ何の意味もないということだね。
ウチの支部の貞ちゃんは言っていた。「識字識字ゆうても字ぃ覚えて字ぃ知らんもんを馬鹿にするようになるんやったらやらん方がましや」と。
それだから蛙は橋下が「裏切った」とか「間違った」とかは思っていない。
出身の国会議員とか各級議員、政令指定都市の首長、大学教授等など、「世間」で言うところの「エライ人」はこれまでもたくさんいたし、これからもそうだろうと思う。
問題は「どっちゃ向いてるねんッ!」って話でしかない。
例えば狭山弁護団の中山さんだが、氏は自身の生い立ちを語られる中で、ご両親の生活と解放運動にかける姿について話されている。
問題は「どんなところでどんな風に生きてきたか」ということなのだろう。
橋下の「憎し」は実は「そこのところ」に鍵がある。
ヒトラーがユダヤの血を受け継いでいるのではないかと疑念をもった話は有名だ。
多分、ヒトラーをモデルにしていると思うけれど、ハリーポッターの敵役、ボルデモートもまた、マグル(人間)との「混血」であることを激しく苦にして「純血主義」を貫いた。
このファンタジーはあまり注目されないが、蛙には「反差別」の物語なのだと考えている。
橋下は「」を否定的に捉えているのであるから、これまでの経緯は必然だと蛙は考えている。
そんなことを言った覚えはないと今では言うかも知れないが、橋下が初めて府知事になった折には、宝塚のある支部では最大級の祝辞があげられたことがあった。
「世間」は知らないが、の側では「その人」が出身かそうでないかは早くから知り得る位置にある。
「」出身者の「出世」は「おめでたいこと」と受け止められることは多いが、「問題」は中身なんだけどなぁ。
さて、「解放の道筋」ということだが、蛙の考えによれば、「それは『ことのついでに』解決されるだろう」という話になる。
いささか乱暴な表現だから大方の人々からは「何ゆうてんねんッ!」ってお叱りを受けるだろうが、実際、そうであるほかないのだ。
時代に「解消論」という話があった。
これは蛙の理解するところでは、「身分差別としての差別、徹底糾弾」という路線から、「労働者階級解放の革命の勝利」への転換を求めたものであったのだろう。
それだから「水平運動」の「共産主義運動」への従属が主張されたと考えられる。
1917年の「ロシア革命」という時代的背景がある。
世界の被抑圧民衆にとって、それは「希望の星」であった。
91年の「ソ連邦崩壊」に至るまで「裏切り」続けられた歴史があったわけだが、仮に「世界革命」が勝利していたなら、もっと違った展開があったのかも知れない。 
そういう夢想をしてみても詮ないことではあるが。
いずれにしろ、この「二項対立」は、ずっと尾を引くことになる。
前稿に記した通り「差別―被差別」の構造は「身体」にまつわり付いた「関係概念」であるから、この「二項対立」はそもそも初めから成立をしない。
「階級闘争か身分差別反対闘争か」という「問い」自体がナンセンスなのだ。
広島県連は「身分と階級の統一的理解」ということを言っているが、「解放運動を考える際に階級闘争についてもあわせて考えていかなければならない」と言っているだけで、間違いとは言えないが、内容はない。
問題は「階級闘争」をどう理解するかということだ。
マルクスとエンゲルスは「これまで」の人間の歴史を概括して、その「動因」として「階級闘争」をあげたのだし、それから「その当時」の現実から「資本制社会」の必然性を明らかにし、あわせて「次代」の展望として「ブルジョア階級が産み出す革命的階級としてのプロレタリアートとその『勝利』の必然性」について言及したのだった。
それだけのことで「それ以上でもそれ以下でもない」のだが、この後、「歴史を見る目」としての「階級史観」が拡大解釈され、「行動規範」にまで高められてしまった。
現在、階級史観の評判の悪さは「ここ」に由来する。
曰く、「君の行為はブルジョアに利する階級的裏切りである」。
曰く、「労働者階級の一部の行為を糾弾することは敵を利するものであって許されるべきものではない」。
解放同盟と日本共産党の軋轢は、双方の「階級史観の教条主義的理解」によっている。
蛙はずっと「プロレタリア階級って『どこ』にいるんだろう?」って思ってきた。
最近、アントニオ・ネグリを読み始めて、「時代は大きく変遷を遂げてきた」ことをようやく理解できるようになってきたと思う。
それで、「解放」が「ことのついでに解決される」とはどういうことか、その辺りを続けて書いていこう。
「解放は『ことのついでに』達成される」などと随分乱暴な言い方をしたけれど、なにも「それ」が「大した問題ではない」と言っているわけではない。
「それ」がどのように達成されるか、誰も言い当てることは現状、不可能事ではあるが、例えば、在日外国人差別が、或いは沖縄が、福島に象徴される「地方」差別が、その他の様々な差別が現状のままである限り、ひとり「差別」だけが解消されることなどあり得ないことは明白であるだろう。
2011年に同盟の新綱領が策定されているが、その折には蛙ブログでも何か書いてきたと思うし、朝田三命題もずっと以前から批判してきたのだが、なにせマイナーなブログであるからしてごく少数の人々にしか読まれてはこなかったと思う。
「綱領解説のための基本文書」でも三命題の批判が書かれているが、まさか蛙の主張が「読まれてきた」わけではなかろうから、「問題を考えれば誰もが同じ結論に至る」ということなのに違いない。
ところで「綱領」には以下のような面白い(と言ってはいけないか)文言がある。
解放が実現された状態とは、民であることを明らかにしたり、歴史的に差別を受けた地域が存在していても、何らの差別的取り扱いや排除・忌避を受けることなく人間としての尊厳と権利を享受し、支障なく自己実現ができる社会環境になることである。
間違ったことを書いているわけではなかろうが、これは全くのトートロジーというほかない。
「解放が実現された状態」とは「差別がなくなった状態」だというのだから、これ程トンチンカンな話もないだろう。
「解放」というアポリアは、「行きつくべき場所」を措呈して「ものを考える」という方法はなじまないのである。
「解放運動」とは「現実」を変革しようとする「運動」以外の何ものでもない。
いつか浜野君の台詞について書いたことがあった。
蛙は住井すえが嫌いだから「橋のない川」は読んではいないが、その中で「って治るん?」という話が出てくるんだそうだ。
で、彼は「その話」を下敷きにして「わし、もう『』、治ってん」てなことを言っていた。
解放の運動は、その闘いの過程で、「被差別民」を「個人として」解放していくということはもっと強調されなくてはならない。
勿論、その延長線上に全ての解決が待ち受けているわけではないが、とりあえず「まずは『私』がすくわれなければならない」ということだ。
ずっと以前に「差別―被差別」の関係は「非対称」であるということを書いた。
「右手と左手」とか「コインの裏表」とか、対称的な事例はあげればきりがないが、要するに二つの事象が同等の重さを持っているということだ。
ところが「この関係」では、全く、それが持つ「重さ」はかけ離れたものになる。
「差別する側」にあっては、その行為が「被差別の側」にどのような「重さ」をもって受けとめられるかということは実は分かりようがないのだ。
「いじめ」についても同じことが言えるだろう。
「相手の身になって考えよう」などということが言われたりするが、それは殆ど不可能事なのだ。
先の稿で「つきあっている女性からアイヌであること告白された先輩」の話を書いたが、「相手の身になって」という作業は相当な困難なものになるのだ。
「好もしく思う相手」であるから、その困難に挑戦することができる。
蛙がそのように言うについて「そんなことは分かりきった話だ」と思われるかも知れない。
しかし実際のところ、それが徹底して認識をされているわけではないのだ。
例えば運動の中で「両側から超える」などという馬鹿げたスローガンをあげる人々がいる。
そのような人々には「このこと」が皆目分かってはいないと言わなければならない。
また、「差別問題に中立的立場はない」などということもよく言われたが、そのように問題を立てることもまた馬鹿げた態度というほかない。
「被差別の側」から「そのように問われたら」問われた人はただ口を閉ざす以外に方法はない。
「差別―被差別」の関係が「非対称」であることを徹底して自覚するところから始めなければならない。
常に「具体的事実」に即して対抗策が考えられなければならない。
例えば学校で「いじめ」に直面している子どもがあったとして、必ずその子に寄り添い、話をきちんと聞いていく、そういう作業が決定的に重要になる。
「いじめ」ている側への「指導」も十分な工夫をもって対処しなければならないが、もっとも大切なことは「いじめ」られている側の子に「君は支えられているのだ」ということを強く伝えることだろう。
「差別」についても全般的に支配的な「差別意識」と闘うことは困難なことではあるが、具体的な事例が起こった場合に「被差別の側」をどれほど強力に支えていくことができるか、それが最も重要な話になるのだ。
「差別」をなくすること、解放同盟は「その方策」を行政に求めることを最重要なこととしているように蛙には見受けられる。
「行政」に取り組んでもらう課題はあるだろうが、「行政」に「解放」を期待することは大きな間違いだといわなければならない。
まっすぐに行く道筋は「自力解放」以外ではあり得ない。