所在地 石海神社 兵庫県揖保郡太子町宮元168
宮本武蔵公園入り口付近に車を止めましたが、ちょっと道幅が狭いので道に迷いました。
宮本武蔵の生誕地には「播州高砂」、「播州太子」、「作州大原」の3つの説が有力な生誕地説となっています。
1762年(宝暦12年)に平野庸脩によって書かれた地誌「播磨鑑(はりまかがみ)」に「宮本武蔵揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産ナリ」と記していることから、太子町宮本説も有力視されています。碑の近くには、武蔵が産湯を使ったという井戸がありますよ。
宮本武蔵公園 案内板より
天下の剣豪と言われた宮本武蔵の自筆の書「五輪書」の序文に、『時寛永20年10月上旬のころ、生国播磨の武士新免武蔵守、藤原の玄信、年つもって60』とあり、また、平野庸修が宝暦年間に書いた播磨鑑には、『宮本武蔵、揖東郡鵤ノ荘宮本村ノ産也』とある。これらの記述から宮本は武蔵生誕の地と考えられるが、安永年間と明治20年の大火で村の大半が羅災し、系図や古文書が焼失したのは残念である
左にある。この椋の木は、樹齢数百年(推定500年程度)と伝えられます。今から250年程前の宝暦年間と明治20年の2回の大火で村の大半が焼失しました。その後、長い年月を経て少しずつ新しい芽が吹き出し、現在では根っこに負けない位の立派な枝振りを見せています。宮本武蔵の実情を知るのは、この椋の大木のようです。
石海神社にお参りです。戦国時代末期の剣豪宮本武蔵は、生涯不敗と言われるほどの剣の達人で、諸国を放浪し多くの伝説を残すほどでありながら、武蔵の誕生については未だ特定されていません。宮本武蔵の生誕地には「播州高砂」、「播州太子」、「作州大原」の3つの説が有力な生誕地説となっています。
石海神社(せっかいじんじゃ)では、日本書紀の編集者であった舎人親王 (とねりしんのう676-735年)を祭神とする 舎人親王御夫婦二柱をお祀りしています。
公園の中に、こんな建て看板が、[この「へんてこりんな顔」なあに?]立っていました。
内容:昔は、この石うす等の加工石が人々の暮らしを支える大切な生活の基だったんだ‥‥‥‥何かを感じてもらえれば嬉しいと思います。‥‥‥ 寒くなってきましたので帰ります。
次回をお楽しみに では またね