所在地 四条畷神社 大阪府四条畷市南野2丁目18-1
四条畷神社の入口です。
この石段を上がったところに、神社の境内があります。創建は、明治23年ということで、
かなり、新しい神社です。
四条畷は、生駒山脈の麓に位置する大阪北東部の町で、
南北朝時代には、四条畷の戦いが繰り広げられ、また、楠木正成の長男で”小楠公”と
称された楠木正行(くすのきまさつら)が、若くして討死した町でもあります。
飯盛山麓に創建した神社。楠木正行を主祭神として、その弟・楠正時など一族の将士24名を祀る。
大楠公・正成を父に持ち、自らも小楠公(しょうなんこう)と呼び親しまれた正行は、1348(正平3)年、
南朝方として四条畷の戦いで敗れ、23歳で討ち死にしました。
拝殿から本殿を望む
四條畷の決戦に際し、小楠公は、吉野の如意輪堂に行き、一族143名の名を留め鏃を用いて板壁に
辞世の句を記したといいます。
「帰らじと かねて思えば梓弓 無き数に入る名をぞ留むる」
当社祭神・楠木正行公は、湊川神社に祀られている楠木正成公の嫡男。父・楠木正成公を大楠公とよび、
正行公は小楠公。ゆえに、当社の通称は、「小楠公さん」と呼ばれています。
境内正面に拝殿があり、拝殿の左手には、
当社祭神・楠木正行公の母・久子を祀った御妣(みおや)神社がある。
境内にあるこの楠木父子の「桜井の別れ」の石像は島本町の桜井駅跡にある銅像と非常によく似たものがあるようです。
大楠公は湊川への出陣において、死を覚悟し、桜井宿において、当時11歳だった小楠公に、
「父の教えを守って正統の天皇に仕える様」訓され、別れを告げた。『桜井の別れ』があります。
楠公慰霊塔は、大きな楠の根元のところに作られている石塔がありました。
豊中市の杉野製作所の杉野社長が買収したある山林に人知れずあったものだそうです。
当社境内から西へ約1Km、参道突き当たりには、小楠公御墓所があります。
御墓所の中は、とてもひっそりとして、垣の中に、大きな墓碑が建つています。
周囲には、小楠公の墓を作った時に植えた若木が、御墓所を覆い尽すほどに大きく枝を広げています。
次回をお楽しみに では またね