hasyan の 旅の散歩道

元気な間に余暇を通じてドライブなどで得た、行き先々の身近な風景・
神社仏閣・史跡・花の写真などをお伝えします。

京都本能寺  2015.05.15

2015年05月17日 09時31分15秒 | 神社・寺院


  所在地   本能寺     京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522 

 京都御苑から南へ、京都市役所から寺町の商店街を下がったところに本能寺がありました。

 信長が光秀に討たれた「本能寺の変」で、あまりにも有名ですが、本能寺は現在、寺町御池にあります。「本能寺の変」があった当時は、西洞院四条あたりにありました。当時の本能寺は、周りに堀や土塁が築かれた城郭造りで、京都でも随一の大寺院であったそうです。だから、信長は、京都の滞在時には本能寺を常宿にしていたようです。

 本能寺の方丈前に、臥牛石(がぎゅうせき)と呼ばれる石が置かれています。加藤清正が寄贈したと伝えられ、加藤清正公は法華経の信者であったため、清正公から寄進された石であるとの言い伝えがあります。清正公が韓半島から持ち帰ったということで、韓国へ戦で渡った時の土産ではないかと言われています。

 本堂の右側を奥に進んで行くと、信長公廟があります。

 奥に信長の供養塔があります。隣には、本能寺の変で亡くなった家臣の碑もあり、『森蘭丸』 の名前もありました。実際に、明智光秀の謀反により信長が自刃した本能寺は、ココではありませんが、後に、秀吉の命令で移転させられています。

 本堂の脇に7軒の塔頭寺院つらなっていて本能寺に給仕する子院です。今の本能寺は、商店街と高い建物の狭間ありますが、何か不釣り合いなものを感じながら山門を潜ると、奥の方に本堂がありました。ちょっと違う感じ
次回をお楽しみに では またね

八代の大ケヤキのある足鹿神社 2015.04.27

2015年04月30日 08時01分53秒 | 神社・寺院


  所在地   足鹿神社     兵庫県朝来市八代229

 県道70の神社正面近くにある梵鐘は往時の神仏混淆の名残ですが、そこに「八代の大ケヤキ」の標識があります。前からこの道を通るたびに気になっていました。

 小川にかかる橋を渡ると、境内入口の鳥居があり、鳥居をくぐると、背の高い松並木のある参道です。

 足鹿(あしか)神社は延喜(えんぎ)5年(927年)に編纂された延喜式神名帳に記載された由緒ある式内社(しきだいしゃ)です。祭神は道中貴命(みちなかむちのみこと)。創祀年代、由緒は不詳で八代大明神とも呼ばれる神社で式内社・足鹿神社に比定されている古社です。

 古くからありそうな神社なのですね。御祭神「道中貴命」は、平安時代初期に天皇の命により「都」からこの地方に派遣され、この地において政務にあたるなど、功績のあった人として祀られたものと伝えられています。

 境内にそびえる鎮守の古木群の中でひときわ大きく目立つ。昭和3年に国の天然記念物に指定された時は、樹高30mの巨木で兵庫県で一番大きかったが、台風で折れた。『大金木』と呼ばれ霊木として崇められている。幹の内部は空洞になり、保護の手が加えられている。国天然記念物。樹高23m、幹周9.8m、樹齢1500年。これを見るのが目的でした。
次回をお楽しみに では またね

新緑の青倉神社  2015.04.27

2015年04月29日 16時03分06秒 | 神社・寺院


   所在地   青倉神社    兵庫県朝来市多々良木

 播但線青倉駅前の国道312号沿いの大鳥居が気に成り、伊由市場の交差点を曲がり県道526号に入って道なりに進み、約3kmほど走ると川上地区にある青倉神社の案内版が見えますので左折します。

 昔はふもとの川上地区から約4kmを徒歩で行く必要があったが、現在は川上地区、多々良木地区、生野町黒川地区の各方面から神社のすぐ近くまで車で行くことができます。青倉神社まで勾配の急な道幅の狭い自動車道を上がって行くと神社下の駐車場に着きます。

 神社のある青倉山(標高811m)は、兵庫県朝来市旧朝来町、生野町、山東町にまたがっている。朝来群山県立自然公園の中核をなしています。その中腹の標高550mに青倉神社があり、眼の神さん「あおくらさん」と親しまれています。

 木々が茂る森の中に二階建ての社殿があります。神仏習合の影響で神社は江戸末期まで、善隆寺(朝来市納座)の奥の院。今も本地仏が境内に祭られ、毎年四月二十五日の大祭は、豊作や無病息災などを願い、もちまきをする風習が残っています。

 拝殿でお参りして、ちょっと覗いて見ると御神体の下側だけで両サイドに階段があるので、履物を脱いで階段を上がり天井の扉を手前に引くと上には神殿がありお参りです。窓から眺めると新緑の綺麗な景色が一望できます。

 青倉山上に建つ岩藏信仰の神社で、目の神様として知られる。昔、この地を訪れた役行者(えんのぎょうじゃ)の目にウドの葉の小さい棘が刺さったので、岩の隙間から流れ出る水で目を洗って眼の痛み画治ったといわれる。この行者が山を下りて村人達にこの水のことを「神水」と名付け、神水のそばにそそりたつ大岩を「ご神体」と定めました。

 青倉神社は、目の神様として知られており、眼病に効く霊水が石段を登った所と社殿の右側に流れ出ていました。 巨岩を御神体としており、社殿は巨岩と支えあうように建っています。

 青倉神社本殿裏にあるご神体の巨石神像です。

 青倉神社の背後にある青倉山山腹の巨岩の奥から湧き出る霊泉は、御神水として眼病に効果があると言われ、目の神様として但馬はもとより県外からも広く信仰されています。
次回をお楽しみに では またね

宝塚市普光寺  2015.04.27

2015年04月27日 18時21分45秒 | 神社・寺院


   所在地    普光寺      兵庫県宝塚市長谷字門畑25

 県道68号線「北摂山里街道」を走り牡丹の咲く時期ですので、長谷牡丹園行く途中に普光寺の山門が以前は茅葺の山門がありましたが、今は、真新しい山門です。

 参道からは、田んぼにはレンゲの花が咲き、鯉のぼりがたなびく長閑な風景が見ることが出来ます。

 宝塚市西谷の長谷(ながたに)地区は、ここは7つある西谷の集落の中でも最も歴史が古い。8世紀はじめ法道上人が大和の長谷(はせ)から移住し普光寺(ふこうじ)を開基したとあります。現在は三田と猪名川を結ぶ幹線道路の最も猪名川寄りにあり、名刹普光寺と長谷牡丹園で有名である。武庫川と猪名川の谷中分水界ともなっています。

 養老年間(717~724年)法道の開山により創建されたと伝えられる。本尊は奈良県の長谷寺本尊と同体で、故に当地を「長谷」と称した、と伝えられている。中世には五坊と多くの寺領を有したが、弘治年間(1555~1557年)に焼失。その後、牛頭天王社(現:素盞嗚神社)の別当寺となりました。

 境内には、宝篋印塔があります。(県指定文化財、南北朝時代 観応元年 1350年、流紋岩、高さ 136.4Cm)
台座は単弁の反花座上に、単弁の蓮弁を刻んだ請座を設ける。反花座の側面は江戸時代中期の享保の年号と人名を刻まれ、相輪は下から、伏鉢・請花・九輪・請花で、最頂部の宝珠を欠失していますが、貴重な在銘宝篋印塔です。

 ちょっと鯉のぼりが泳ぐほどの風がないのかな~。普光寺 を背景に見る風景もいいものです。
次回をお楽しみに では またね

舟城神社 2015.04.09

2015年04月18日 16時17分28秒 | 神社・寺院


  所在地   舟城神社    兵庫県丹波市春日町長王1―1

 春日町の国道175線から県道285を走り天王坂の途中に舟城神社ヶ、この道は、忠臣蔵の大石内蔵助の妻りくが離縁されて山科から豊岡の実家へ帰る際に通った道のようです。

 石に鳥居の側に駐車場が階段を上って行くと、拝殿が見えてきます。もう少しです。

 江戸時代には寺院であったことを偲ばせる仏教的造型の影響を大きく受けた神社の一つです。舟城の天王さんとも呼ばれ親しまれて、神殿の牛の銅像や、社殿が真北方向に向いているのも珍しいです。

 拝殿の左側には、「願いのかなった木」と大きな樽が、神仏混淆時代は天台宗として発興し天王山覚王寺と名付いて 明治6年(1873)、村社に列せられたようです。

 境内には桜の木があり、散り染めかな~ここの神社の人にお話を聴くと秋の紅葉も綺麗だそうです。

 本殿の裏側にまわると末社があり、江戸時代には寺院であったことを偲ばせる、仏教的造型の影響を大きく受けた神社の一つです。拝殿を装飾する彫刻の数々は、一見の価値があります。

 神社の名前が珍しく、偶然立ち寄った神社ですが、明らかにお寺の本堂が社殿になった、という感じです。ここは神殿が真北に開かれている珍しい社で、「北拓き天王さん」と親しまれ、7月7日には天王さん・牛馬の守護神の祭礼が執り行われています

桜が咲いている朝光寺  2015.04.03

2015年04月06日 05時45分16秒 | 神社・寺院


  所在地   朝光寺    兵庫県加東市畑609

 「つくばねの滝」の手前には長い階段を上がると、朝光寺仁王門が、(町指定文化財、三間一斗の八脚門形式、)江戸時代から中期の様式を示しています。昭和59年度に屋根葺替えなどの大修理を行われました。

 仁王門をくぐると、本堂が、朝光寺は、法道仙人の開基と伝えられ、国宝の本堂は、細部に和様・唐様の折衷様を呈した方七間の堂々たる建造物で、室町時代初期の建築といわれています。緑に包まれた静寂の境内に、近くのつくばねの滝の水音が聞こえてきます。毎年5月5日には、勇壮な鬼追踊が奉納されます。

 境内には、(重要文化財・鎌倉時代)と伝えられる鐘楼(しゅろう)があり、数本の桜が見頃を迎えています。

 この多宝塔の内部は四天柱があり、その柱間に釈迦如来と多宝如来を安置されているようです。(指定なし、桃山時代 慶長六年 1601年再建、本瓦葺、高さ 約15m)

 開基は一乗寺と同じく法道仙人と伝えられ、法道仙人は天竺(インド)のから紫の雲に乗って来たとも、中国、朝鮮半島を経由したとも伝えられる半ば伝説上の人物である。もとは現在地よりも北にある権現山にあったとされるが1189年にこの地に再建されました。本堂から覗く桜も綺麗ですね。

 再び仁王門から石階段を降りて、薄暗い参道を通り駐車場に
次回をお楽しみに では またね

西代の楠大神のクスノキ 2015.02.02

2015年02月02日 17時41分14秒 | 神社・寺院


  所在地   西代の楠大神のクスノキ    神戸市長田区西代通2丁目3―4

 遠くからでも楠が見えます。楠大神の楠(クスノキ)は、南北に通じる道路を通せんぼするように立っていて、樹齢100年、高さ12m、周り5mあり、楠大神のご神木である。西代村の守り神でこの木を切ると大火事が起きるという言い伝えがあります。

 今から150年ほど昔、天保年間のこと、毎夜よく火事が起こり、西代村のほとんどの家が焼け、そのうち 「あれは楠の大木の根元に住む狐のしわざじゃ」と、欲深い庄屋があの木を切り倒すため太い幹に斧を打ち込み、それで根元に住みついていた狐の家が失うので、しかえしに村人の家を焼いているのだと云われ

 庄屋が楠を切るのを止めると プッツリと火事がなくなりました。それ以来、楠は西代の守り神と信じられ「楠さん」と呼ばれています。

 ずっと後になって、道路を広げようとしたときも、この木に斧やノコギリをいれると、熱にうなされ、血を吐いてもだえて死んだといわれています。現在は「市民の木・クスノキ」です。
 次回はお楽しみに では またね

平清盛ゆかりの乙姫大明神 2015.02.01

2015年02月01日 12時49分02秒 | 神社・寺院


  所在地  乙姫大明神   神戸市垂水区下畑町神の脇437

 旧神明道路の南側に、「竜宮城」 と書かれた朱色の鳥居があります。車で通ると見逃しそうに

 亀の甲羅の様な石が、鳥居をくぐり先は、急な石階段が続きます。

 ホンマニ急な階段です、右には岩肌にへばりつくように大木が根を張っています。その下の方に社があるようです。

 下畑の旗振山を、下畑では古く鯛取山といい、この山で、浦島太郎は鯛を釣りましたが、釣った鯛を助けました。助けられた鯛は、浦島太郎を竜宮城へつれて行き、百年目にこの乙姫神社の岩の上に帰ってきて、目を覚ましたと云われております。

 境内の御手洗の横には井戸のようなものがあり、村民は清盛公に感謝して、ここを浦島伝説にちなみ「竜宮城」と呼び村の守り神として崇拝してきました。

 平清盛の建立と言われています。さざれ石をご神体として宋貿易の船の安全を願った。そして神社を「乙女大明神」と名付けました。1184年の一の谷の合戦では、義経と熊谷直実がこの付近で別れ、平家の一の谷の陣が望める鉄拐山に到着し、義経勝利の作戦「鵯越の坂落とし」を遂行しました。

 「乙女大明神」の前の道には、梅の花が咲き、以前 鉄拐山に登るには、もっとも近道であったことから、村の住民もこの道を経て須磨に向かったが、おそらく義経軍も、この道を辿ったものと考えられます。
 次回をお楽しみに では またね

初春の清荒神へ  2015.01.12

2015年01月12日 21時46分40秒 | 神社・寺院

  所在地   清荒神   兵庫県宝塚市米谷字清シ1

 今年初めての「荒神さん」へのお参りです。清荒神清澄寺へのお参りは、ここ阪急宝塚線「清荒神」駅から始まります。

 途中には、祓禊橋(みそぎばし)があります。橋は、明治44年に設置されました。 橋ができる前は参拝の為に荒神川まで降り身体を清め、荒神さんにお参りしていた事から 現世と神聖なる場所との境界とされていました。 現在は、この橋を渡る事が御祓の代わりとなっております。

 参道の距離は、約1kmほど歩く30分位のゆるやかな坂道です。参道の形は龍が天に昇る様を表していると言われ、左右には200店舗ほどの店が立ち並び楽しみながら歩く緩やかな坂道ですので、散歩道としても最適です。

 駅前より山門までは、店舗と露店が立ち並び、食べ物類から衣類や日用雑貨、土産物、園芸用品、骨董品等に至るまで、ありとあらゆる品物が揃っています。門前町の風情をかもし出しています。山門が近づいてきました。

 山門をくぐり石段を上がります。

 境内には初詣が過ぎているのに、この人手です。

 天堂(拝殿)には、三宝荒神王、大聖歓喜天(聖天)、十一面観世音菩薩他、福徳を授ける諸神諸仏が祀られています。聖天さまは仏教守護の神として、祈れば富貴を与え病を除き、夫婦和合・子を授けると言われています。近隣地域では、「荒神さん」と呼び慣わされ、「かまど神」の一種として、ここで受け取ったお札を台所の神棚に祀るなどの信仰が根付いています。私も「かまど神」のお札を頂きました。

 ご本社の背後には、当山開創に際し、荒神様がお姿を現されたと伝えられる「荒神影向の榊」があります。天堂から本堂へは山腹につけられた石段を上り下りしますが、その途中に一社があります。明治時代の或る夜、当山先師忍随和上と光浄和上とが、同時に稲荷明神の霊夢を見、ここに新しく祀ったものと言われています。

 石段を上りきると、山門からの正面に南面して本堂・霊牌堂と練行堂の三棟からなっているのが見られます。 本堂は、安政年間に旧清(もときよし)の寺域より移築上棟された建物でしたが、当山開創千百年記念事業として、平成元年より5年の歳月を掛けた平成の大改修により、面目が一新されて今日の姿となりました。

 石階段を降りると、そばには、一願地蔵尊は金銅製の巨大な立像で、頭上にまで水を掛けて一つの願いを念ずれば、ご利益があると言われています。

 一願地蔵尊の横を進んで行き、鉄斎美術館に向かって右の川に沿って奥へ行くと滝があります。「龍王滝」と言い、滝の正面左の岩肌に不動明王をお祀りしています。道の突き当りには十三重の供養塔があります。

 ちょっと見にくいですが、これが不動明王です。上の写真で判りますか?

 お参りした後は、今来た参道の店で、みやげ物を買い「清荒神」駅へ
次回をお楽しみに では またね


楠木正成公を祀る湊川神社へ初詣  2015.01.02

2015年01月03日 08時55分31秒 | 神社・寺院


  所在地   湊川神社    神戸市中央区多聞通3丁目1―1

 湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、初詣でお参りするのは久しぶりです。楠木正成を祭る神社で、地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社です。

 時間が経つにつれて楠公(なんこう)さんの愛称で親しまれる湊川神社は人出が多くなってきました。1872年(明治5年)の創建で、足利尊氏の軍を兵庫湊川で新田義貞・楠木正成らが迎えた湊川の合戦で戦死した建武中興の忠臣・楠木正成を祀りしています。

 表門をくぐって参道を直進するとコンクリート造の社殿です。明治五年、素木造の社殿が建てられましたが戦災によって焼失したため、昭和二十七年に再建されたものです。

 湊川神社は、 旧別格官幣社で祭神は主祭神として贈正一位橘朝臣正成公(大楠公)を祀り、大楠公夫人・正行卿・正季卿以下一族殉難将士の霊を配祀しています。

 御墓所には徳川光圀公(水戸黄門)の銅像があります。光圀公は、水戸藩主を辞して西山荘(せいざんそう)に隠居(いんきょ)された後も、大日本史の編纂(へんさん)を行うなど活躍され、正成公をひたすらお慕いされて墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立されました。これら御事蹟は天下に顕彰され、偉大な御功績をのこされました。此の御功績を追慕して御尊の建設が尊願され、昭和30年7月に完成しました。銅像の原型は、平櫛田中の作で、その頌徳碑(しょうとくひ)は、徳富蘇峰(とくとみそほう)の文によるものです

 境内の右側には、もともと当地が、楠木正成公一族の終焉の地でありましたが、水戸光圀が、その荒廃を嘆き、元禄五年(1692)、「鳴呼忠臣楠子之墓」と自書した墓碑を立てた菩提所であり、明治元年(1868)明治天皇の勅によって創祀された神社です。

 墓碑は亀の背に乗っていますが、この亀は、正確には亀に似た伝説上の生物「贔屓」だそうで、龍の子で、重たいものを背負うことが好きな生物のようです。「贔屓する」の語源といわれています。

 湊川神社は、他と比べて、物凄く新しいです。生田さん、長田神社は、古代弥生時代創建で、神話の時代から鎮座まします。湊川神社の入り口正面(南側)に建つ表門の右側に「大楠公御墓所」へ行く入口があります。湊川神社拝殿へと続く参道は初詣で、人出がいっぱいです。三が日で初詣に来られる人はどのくらいかな?
 次回をお楽しみに では またね

生田神社へ初詣  2015.01.02

2015年01月02日 13時56分37秒 | 神社・寺院


  所在地   生田神社    神戸市中央区下山手通1丁目2―1

 生田神社は、繁華街の真ん中にある神戸の地名の由来になった神社で、東急ハンズの裏にあり、神戸を代表する繁華街の中で一際強いパワーを持つこのスポットには、毎日多くの人々が、絶える事なく参拝をしています。

 生田神社では、午前零時に楼門が開門し、宮司が新年を告げる太鼓を打ち、楼門上からも神戸太鼓が打ち鳴らされ新年を迎えます。

 生田神社で売られているお守りは多種多様で、特に皇室に献上する干支土鈴の授与は人気のお守りです。生田神社境内の松尾神社にある杉の木に向かい、恋愛成就の願い事をすると願いが叶うとのいい伝えから「縁結びの神様」としても親しまれ、男性は白、女性は赤の「縁結びのお守り」を購入すれば結ばれるといわれています。

 拝殿前に行き初詣のお参りです。
御祭神は、稚日女尊 (わかひるめのみこと)で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の和魂(にぎみたま)あるいは妹神と伝えられ、若くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。

 生田神社はその御名の通り「生きた」「生まれた」と読めることから、昔から健康長寿の神、又御祭神が稚日女尊(わかひるめのみこと)若く瑞々しい太陽の様な女神様と伝えられ、初宮まいりや七五三まいりなど子供の健やかな成長を祈る家族、親族等多くの人々で賑います。

 「生田の森」は本殿後方にある鎮守の杜で、古(いにしえ)は旧生田川にまで及ぶという広大な森でした。軍事的な要衝であったたため、たびたび歴史的な合戦の舞台になりましたが、寿永3年(1184年)の源平の合戦は特に有名です。

 これは生田の森の西入口にあるクスノキで、幹周5m以上あるようです。こんな大きなクスノキが3本ほどあります。

 生田神社に納められた酒樽です。神戸は清酒の有名なところですもの~

 「梶原の井」
一名「かがみの井」とも云われ、壽永の昔(八百年前)源平生田の森の合戦の折、梶原景季がこの井戸の水を汲んで生田の神に武運を祈ったと伝えられる。別説では景季がこの井の水を掬った時、咲き盛った箙の梅の花影が映ったとの伝もあります。

 時間がたつにつれて多くの人が初詣に、生田神社の初詣は、お正月の3が日で兵庫県最多の初詣客が訪れる人気の初詣スポットですが、今年は、どのくらい初詣客が訪れるのかな?
 次回をお楽しみに では またね

福中城と宝珠寺 2014.12.10

2014年12月12日 20時26分13秒 | 神社・寺院


  所在地  宝珠寺     神戸市西区平野町福中250

 明石から国道175号線を三木方面に北上していく途中に福中城跡(向井城)はありまが、宅地開発で現在遺構は何も残っていません。かろうじて字名の一部にかつてこの地に城があったことが分かる地名が残るぐらいで、最後の城主、間嶋彦太郎の墓が宝珠寺にあります。

 福中城のあった場所の北200mほどの場所に、宝珠寺があり、曲輪の外に建っていますので、城跡ではありません。

 山門くぐると本堂が、寺伝によれば、文禄元年(1592)福中城主前因幡守間島彦太郎の創建で、その位牌が安置されています。

 山門の左手にある、五輪塔は彦太郎の墓と称されています。 城主の間島氏は守護大名赤松氏の親族にあたる由緒正しい家系を誇った家柄で、本家が佐用郡に、分家は加東郡などにあります。明石に来た間島氏は彦太郎を世襲し、平野荘の地頭として南北朝時代の建武2年(1335)ごろに、やって来たようです。

 国道175ができるまでは、福中城は神戸市内でもっとも遺構が残る城だったようですか、あっという間に開発の波に呑み込まれ、城跡を感じさせてくれるものは寺院から見た風景ではありません。
 次回をお楽しみに では またね

秋の装いの高座神社 2014.11.23

2014年11月24日 07時25分53秒 | 神社・寺院


  所在地   高座神社    兵庫県丹波市山南町谷川3557

 高座神社は丹波国造の創設であって、その祖神高倉下命及び祖神に関係深い四柱の神を合祀し、もと村内金屋にあったのを、後年今の地に移したと伝えている。現社殿は宝永2年(1705)の建立されました。

 神門をくぐると、高座(たかくら)神社に県指定天然記念物のフジキがあります。マメ科の高木だが平地で大きく生育したものは全国でも2例のみと言う。根周り6.8m、樹高20m、幹廻り3.5mあり、神社が現在地に遷宮した1557年に植えられたと言われ、推定樹齢400年と思われます。

 「フジキ」の周辺には、今が見頃に紅葉(黄葉)が盛んで綺麗です。

 桧皮葺の随神門には、ちゃんと随神が座っておられ、紅葉も美しく正面に唐破風造りの向拝をつけ、蛙股も美しい桧皮葺きの本殿がありますが、今は、改修工事で完成が待ちどうしいですね。

 2012年05月21日に、 本殿の改修工事が行われることが決まり、 改修工事の実現に向け、 氏子や地域住民らが力を合わせて動き始め再建から300年ぶりの改修に2017年度の完了をめざしている

 高座神社のそばの人家近くの、休耕田に何かと じっくりと見ると可愛い小鹿が

 300年ぶりの大改修へ 県指定文化財・高座(たかくら)神社(丹波市山南町)完成したらもう一度来たいものです。
 次回をお楽しみに では またね

源氏と平家にまつわる伝説の首切地蔵尊 2014.11.23

2014年11月23日 19時45分44秒 | 神社・寺院


  所在地  首切地蔵尊   兵庫県丹波市山南町谷川315

 加古川の支流篠山川・山田河へと上流へ車を走らせると、どんどん道幅が狭くなって行き、首切地蔵尊の駐車場に、そこには地蔵茶屋があります。この山道は、昔「大阪道」といわれ、摂津・播磨と丹波の国を結ぶ間道として使用された道のようです。

 駐車場から首切地蔵尊へ行く道が

 地蔵尊までは階段を上がっていきますが、その右側には寄付された人の名前が貼ってあり、各地から多くの人達が参拝に来られているみたいですね。

 紅葉は、ちょっと遅かったかな~紅葉した落ち葉が沢山あります。

 寿永2年(1183年)の頃、源氏との戦いに敗れた平家一門に連なる公達、姫君が丹波路へ逃れるなかで、落人狩に捕えられ、奥山深い沢で悲運の最期を遂げたのを伝え聞いた里人達が、碑を建て弔ったのが始まりとされます。

 現在は7体のお地蔵さんが祀られており、春秋の2回の大祭には行者の方々の大護摩焚きが行われ、首から上の願い事が叶うとされ合格祈願者が参拝に訪れる人が多いようです。

 地蔵尊をお参りしていると、この土地の人がお茶でもいかがですかと話しかけられ、話も弾みこんないわれのある地蔵尊とは、紅葉が終わりかけているのが残念

 丹波路に迷い込んだ公卿や姫たちはしばしの憩いを求めて身を寄せたが、それもつかの間、落人狩りに捕らえられ山田の奥山深く樹木生い茂り昼尚暗い首切沢で処刑されあえなく悲運の最期を遂げました。
伝え聞いた里人たちが人の世のはかなさを嘆き、哀れみ碑を建てて野花をたむけ後生を弔い祀ったのがはじまりで、いつからか首切地蔵尊と呼ばれ、今に言い伝えられています。
 次回をお楽しみに では またね

西林寺の紅葉 2014.11.03

2014年11月06日 08時56分36秒 | 神社・寺院


  所在地   西林寺     兵庫県西脇市坂本455

 なかなか立派な仁王像が安置されている西林寺の山門ですが、門には太い〆縄が掛けられていて、その奥に、紅葉が始まるモミジが覗いています。

 山門をくぐると、鮮やかな色の紅葉が、

 まだ紅葉がはじまっていないモミジがあり、また 紅葉で綺麗なモミジもありコントラストがありますね。

 岩に張り付く「ツタ」が紅葉して背景の山門の朱色が綺麗ですね。

 十三重の石塔の付近にある、モミジも紅葉はこれからのようです。 

 鐘楼の付近の紅葉は少し始まっているのかな~

 土塀付近には、紅葉が始まり、春の椿や桜、初夏のアジサイとともに秋の紅葉も美しさで人気があります。深く色づいた紅葉と境内のさまざまな建造物との調和が見事で期待したい名所ですね。

 本堂への参道入口付近のカエデは、まだ 鮮やかな紅葉になっていませんが、これからが見頃になるでしょう。

 法道仙人が開いた古刹である西林寺は、平安時代中期に作られた十一面観音菩薩像が本尊に祭られています。
 次回をお楽しみに では またね