Sketch of the Day

This is Takeshi Kinoshita's weblog.

「パブリックガーデン、プライベートランドスケープ」に寄せて

2005-05-02 | Japan
bs@web 4月27日付 身辺メモ

ヨーロッパは「にわ」が公開(public garden 化)され、さらに「公園」(public park)と呼ばれるプロセスを経験しているのにたいして、日本はその過程を経ずにいきなり公園が「導入」されちゃった。だから、「にわ」と「公園」のあいだには形態的にも機能的にも明らな断絶がある(と思う)。わざわざプライベート・ガーデンとか、パブリック・パークと断らなきゃならない必然性が日本には全くない。ガーデンはプライベートでしかありえないし、パークはパブリックでしかありえない。

そこで、仮に、欧米の公園にリアリティを見い出せるとするなら、その理由としてまずはこの、ガーデンとパークの連続性を指摘できるんじゃないだろうか。だとすると、外来物として受容された公園がリアリティを獲得するひとつの方法として、「にわ」との連続性を創出すること、あるいは「にわ」への回帰、ということが「理論的に」言えるんじゃないか(乱暴か)? 不特定多数の利用に供する公園と特定少数の利用に供する庭園との非対称性という紋切り型の教科書的説明は、間違いでは全くないけれど、上記したような重要な視点を見落とす可能性があるという点で注意が必要だろう。

明治時代の初期にはいわゆる「日本庭園風」の公園というのが盛んにつくられていた。日比谷公園以降である。公園のデザインが欧化していき、それがプロトタイプとなっていったのは。現在でも都市公園のなかに日本庭園がつくられるという事態はー結果としてのデザインの善し悪しの問題は置いておくとしてもーそれなりに意味があることだと思う。その意味で、長岡安平や小沢圭次郎の公園デザインというのは今一度見直されるべきであると思っている。

ところで、公園だけが「公共空間」ぢゃない。オフィスビルや集合住宅のいわゆる「外構」は立派な公共空間だ。ホテルの庭園だって超(ちょー)公共空間だ。そして、これこそが「にわ」の系譜と言えるだろう。この点を見落としてきた、というか「所詮、民間の仕事だ」とかぬかして無視してきたことは、ランドスケープの近代史にとって大きな損失であったと思う。日本の公共空間は「にわ」の系譜において今一度見直すべきであると考えている。都営スタイルやパーソナルスケープの議論も、その意味で面白いのだ。

@静岡に吸収合併された清水

2005-05-02 | Japan
2005.4.29.Fri
*静岡に帰省
朝読む時間がなく静岡の実家に持ち帰った朝日新聞朝刊「私の視点」欄に掲載された「住宅地内の跡地問題 法改正で規制強化を」(都市ジャーナリスト小川明雄)を、納得して読む。

2005.4.30.Sat
*祖父の米寿の祝い
ささやかではあったが、寿司とケーキと花束という組み合わせでお祝い。
*まるで砂漠で水を飲むかのように「新日本紀行ふたたび」をみた。有名な富田勲のオープニング曲は歌詞付でないかつてのものがいいと思う。

2005.5.2.Mon
*授業「公園計画論」3週目
連休の狭間で学生の出席が危ぶまれたが、30名ほども顔を出してくれた。ヨーロッパの公園・緑地整備史について解説。庭園と公園の連続的発展性、イギリスとドイツにおける公園・緑地政策の対照性について解説。