壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

私に触れないで

2008年08月16日 23時42分08秒 | Weblog
 今朝方、涼しい風が吹いてきた。まるで秋風のような。
 そして、午後から夜にかけての雷と豪雨。そのおかげで、現在の室温は30度、いつもより1~2度低い。どうやら今夜は、久しぶりによく眠れそうだ。

 秋とは名ばかりとは言いながら、八月も半ばを過ぎると、日中の暑さはまだまだ厳しくても、朝晩はいくらか涼しくなってくる。
 ちょうどその頃、朝露にしっとりと濡れて、淡い感じの紅や桃色・白と、色とりどりの花を咲かせ始めるのが、鳳仙花である。
 秋の哀れを知らせるかのような瑞々しい茎、桃の葉に似て柔らかい若緑の葉、そして次から次へと、いつ果てるともなく咲き続ける鳳仙花……。

 原産地は東南アジア、インド・マレーシア方面といわれるが、いつ頃、我国に渡って来たのだろうか。
 鳳仙花は、古くは「爪(つま)くれなゐ」と呼ばれ、『枕草子』にこの名が見えているので、平安時代には渡来したものと思われる。
 ツリフネソウ科の一年生草木で、世界各地で栽培されているという。

 鳳仙花の紅色の花を摘んで、カタバミの葉と揉み合わせて爪を染めるのが、昔の女の子の習わしであった。化学染料によるマニキュアと比べて、いかにも自然な効果を発揮したことであろう。
 その爪紅の他にも、鳳仙花は子どもたちの楽しい遊び相手となっていた。
 落下傘のように、傘を広げて舞い上がるタンポポの種子、キリキリと廻りながら舞い落ちる楓の種子、動物の身体にくっついて運ばれるイノコヅチの種子、おいしい果物を提供して、種子を撒き散らしてもらう柿や葡萄・桃などなど。
 造化の神は、ありとあらゆる手段を講じて、植物の繁殖を助けているが、鳳仙花もまた、一工夫凝らしたものである。
 鳳仙花の実は、よく熟してくると、ちょっとしたショックにも、自然と莢がはじけて、中の種子が散弾のように勢いよく飛び散る。ふっくらと膨らんだ実に、ちょっと触れただけで、間髪を入れずに、はじき出される茶褐色の粒。
 子どもたちはそれが面白くて、多少のショックも感じながら、飽くこともなく鳳仙花の繁殖を助けているのだ。
 このように、熟すと皮が自然に縦に裂けて、中から種子が飛び出すところから、鳳仙花の花言葉は、「私に触れないでください」。


      三度目の初恋もまた鳳仙花     季 己

大文字

2008年08月15日 21時58分18秒 | Weblog
 月遅れ盂蘭盆の法事も終わって、八月十六日の夜は、門ごとに苧殻を焚いて精霊を送り帰すのが習わしとなっている。

 孔子の教えに、「祀ること神いますが如し」とあるが、魂迎えをし、精霊棚に数々の食べ物を供えて、年に一度のおもてなしをする盂蘭盆の作法は、魂の不滅を信じ、死せる者と生ける者との間に横たわる、時間・空間の隔たりを越えた、あたたかい肉親の情のつながりを示すものとして、いかにも東洋的な懐かしみのある風習だといえる。

        ♪夏は河原の夕涼み
          白い襟足ぼんぼりに
           かくす涙の口紅も
            燃えて身を焼く大文字
             祇園恋しやだらりの帯よ  (『祇園小唄』)

 山城と近江の国境にある如意ヶ岳の中腹に、75ヶ所の穴を四メートルおきに掘って、大の字を象り、穴の中に松の薪を井桁に組んで積み上げ、この夜の八時を期して一斉に点火する。
 すると、第一画が73メートル、第二画が146メートル、第三画が124メートルという、大きな大の字が夜空を焦がして燃え上がる。
 これはもう、京都どころか、全国から見物客が押し寄せる、京都の夏の夜空を彩る素晴らしい行事である。

 京都東山如意ヶ岳の中腹に、あかあかと燃える大文字の美しさは、八月十六日、盆の送り火としての祈りの火であり、風情の火であり、さまざまなことを思わせる哲学の火色(ほいろ)でもある。
 一条通りが正面とされているその文字は、横川景三の書であると伝えられるが、弘法大師の筆跡ともいわれている。
 黄昏に点々と光り始め、暮れるにつれて紅に変じ、ついに連なって紅蓮の大文字、そしてまた切れぎれに燃え尽きる。

 東山の大文字に続き、松ヶ崎の大黒天で燃やす妙法の二文字、西賀茂の船形、衣笠山の左大文字、嵯峨の水尾山の鳥居形が、次々と燈される。
 京の町を三方から赤々と染め出すさまは、何とも喩えようのない詩的で美しい眺めだ。
 大文字は、室町時代から伝わる伝統行事なのである。


      ときめきてつぎつぎ細る大文字     季 己 

八月十五夜

2008年08月14日 21時40分57秒 | Weblog
          大津 義仲庵(ぎちゅうあん)に於いて        
        三井寺の門たたかばやけふの月     芭 蕉

   「今夜の名月はまことにすばらしく、月見の興はなかなかどうして
    尽きそうにない。この上は、名月にゆかりある三井寺の月下の門
    を、漢詩の趣のごとくに、たたきたいものだ」

 元禄四年、八月十五夜のことである。
 芭蕉は、義仲寺無名庵に、門弟たちと相会した。
 琵琶湖に舟を浮かべ、深更、千那(せんな)・尚白(しょうはく)を訪ねて驚かしたあげくの、五更(午前三時~五時)過ぎの作のようである。

 「三井寺」は、大津にある園城寺(おんじょうじ)の通称である。仲秋名月の夜のことを扱った謡曲『三井寺』の舞台でもある。
 謡曲は、当時、俳人たちの常識であり、この芭蕉の句も謡曲『三井寺』を踏まえている。
 「今夜は八月十五夜名月にて候ふほどに、幼き人を伴なひ申し、皆々講堂の庭に出でて、つきを眺めばやと存知候」
 と謡曲『三井寺』にある。また、
 「月の誘はばおのづから、舟も焦がれて出づらん、舟人も焦がれ出づらん」
 ともあるから、湖へ漕ぎ出した人々は、謡曲『三井寺』を思い出していたに違いない。
 そこで芭蕉は、「月を眺めばや」を、その三井寺の「門たたかばや」と興じたのであろう。「門」は、「カド」ではなく「モン」と読みたい。
 「門たたかばや」は、「推敲」の故事として有名な、『鳥は宿す池中の樹、僧は敲く月下の門』が、心に生きていて働いたものである。
 「ばや」は、願望(……したい)・意志(……しよう)などの意を持つ終助詞である。
 「けふの月」は、仲秋名月のことをいい、秋。
 月に興じて、漢詩の古典的世界を思い描いている発想であろう。

 「月」といえば、浄土宗の宗祖・法然上人の有名な歌
        月かげの いたらぬ里は なけれども
          眺むる人の こころにぞすむ
 がある。
 「月かげ」は、月光に照らし出されたものの影ではなく、月の光そのもののことである。
 月光が地上を隈なく照らしている事実を、「月かげのいたらぬ里はなけれども」と詠んだのだ。
 下の句の「眺むる人のこころにぞすむ」は、“澄む”と“住む”とを掛けた、掛詞(かけことば)である。

 月かげ、すなわち真理・教えの届かぬ所はない。誰もの心の中に仏性が住む、心が清澄になれば、月かげが自然に宿るであろうと……。
 月光を浴びながら、月光を身や心に感得しなかったら、月光はただ空しく流れるだけだ。
 それに引きかえ、月光を仰ぎ、月光を拝む人には、月光はその心の奥底まで輝く。

 テレビのニュースで、ちらっと見たのだが、男子体操で銀メダルを獲得した内村選手の競技中、お母さんが合掌して、何かぶつぶつ呟いていた。変人には「ナムアミダブ」と言っているように見えたが……。

 いまの室温32度。目の前の窓を開け放って、パソコンと格闘をしている。陰暦七月の十五夜を見ながら。


      名月や鎌倉にある伯父の墓     季 己

2008年08月13日 21時53分14秒 | Weblog
 お盆の帰省ラッシュがピークを迎えた。上りのピークは15,16日という。お互いに事故のないよう、気をつけたいものである。

 盂蘭盆につきものは蓮の花であろう。
 仏さまの乗っておられる蓮華の座、極楽の池に浮かぶ蓮の台。蓮の花は仏教の世界で最も尊ばれている通り、インドが原産の、スイレン科の多年草である。
 泥の中から生えながら、汚れに染まぬ浄らかな花を咲かせる蓮は、仏教の尊ぶ清浄の理(ことわり)を象徴するものと見立てられたのだろう。ここに「煩悩即菩提」の教えが象徴されている。
 つまり、「この泥があればこそ咲く蓮の花」ということだ。

        蓮葉(はちすば)の 濁りに染まぬ 心もて
          何かは露を 玉とあざむく   僧正遍昭
 六歌仙の一人、僧正遍昭は、なかなかユーモラスな歌を詠んでいる。
 蓮の葉の表面には、産毛のような細かい毛が密生しているものだから、その上に溜まった露は、ころころと丸く一ところに集まって、仏教の教えの清浄心そのままに、まるで水晶玉のように輝いている。僧正遍昭は、蓮の葉に溜まる露の美しさを、仏教の教義に照らして、その虚と実とを巧みに諷したものである。

 7~8月ごろ、蓮は、蓮池や沼、田などで、白や淡い紅色の花を開く。
 ところで、ハスのことをハチスと呼ぶのは何故だろう。
 蓮の花は、花びらが散ったあと、花托が大きくなって実を結ぶ。その蓮の実が一粒ずつ入っていた穴が、蓮の実のこぼれ出たあとは、まるで、蜂の巣のように見えるので、「蜂巣(はちす)」と呼ばれ、花そのものをもハチスと呼ぶようになったものであろう。
 そして、そのハチスがつまってハスとなったものと思われる。
 わが国最古の辞書『和名抄』にも、ハチスノミ・ハチスノネ・ハチスノハヒ・ハチスノクキなどとあって、ハスと訓(よ)んだ言葉はない。

 ♪踊る阿呆に見る阿呆……エライヤッチャ、エライヤッチャ…… 
 と練り歩く、徳島名物「阿波踊り」が、昨日から始まった。
 阿波藩で、徳島城を落とした祝い酒で、町民たちが踊ったのが起源というが、古い念仏踊りの変型だとも聞いた。
 鳴り物につれて大集団が、徳島全市を踊りの渦と化す阿波踊りは、ダイナミックで実に壮観である。


      阿波踊の鉦のかなしきはずはなし     季 己

盂蘭盆

2008年08月12日 23時42分25秒 | Weblog
 陰暦7月13日の夕刻から15日(または16日)までの魂祭を「盂蘭盆」、略して「盆」という。今は盆休みというと、8月13日からというところが多いのではなかろうか。
 正月と並んで一年の前後を分かつ大事な節目にあたり、家々では、座敷や庭先などに盆棚を飾って祖霊を迎える。盆棚は、いまは殆んど仏壇を利用している。
 盆のあいだ、仏前に素麺・小豆餅・枝豆・瓜・茄子などを供えて霊に供養する。
 僧が檀家をまわって盆棚に読経するのを棚経という。
 盆棚には初物の野菜を供えるのがならわしであるが、鬼灯・地梨・はまなすなどの赤い実を供えるところもあり、その土地その土地で少しずつ違っている。
 前年の盆以後に死者を出した家では、新盆・初盆・あら盆・新精霊などという。

 13日の夕方、門前で苧殻を焚いて祖霊を家に迎えるが、これを「迎へ火」という。ほろほろと燃える赤い炎は、盆の行事にふさわしい。うす紫の煙が“むかし”をかき立てて、なつかしい。
 そうして16日の夜、苧殻火がまた焚かれる。これが「送り火」。祖霊は懐かしい家を去って、墓などにもどってゆく。わびしい炎である。
 こうして、盆もおわる。

 また、盆には墓に詣でて香華を手向けるのがふつうである。
 けれども変人は、盆には墓参りをしない。
 家の宗派が浄土真宗なので、「霊」という観念がない。したがって「迎へ火」も「送り火」も焚かない。よそ様のを見せていただくだけだ。
 なにより、霊があるとすると、盆の期間中は、祖霊は家に戻って居て、墓にはいないはずである。
 ご先祖様のいない墓に香華を手向けるなんて、こんなハカナイ話はない。


      飛行機の墜ちし日と思ふ蓮の花     季 己

涙の北島選手

2008年08月11日 23時41分55秒 | Weblog
 北京オリンピック競泳の男子100メートル平泳ぎ決勝で、北島康介選手が完璧な泳ぎで、58秒91の世界新記録を樹立して金メダルを獲得、オリンピック2連覇を達成した。
 同じ区民として、心の底より「おめでとう」を言いたい。
 拙宅近くの、北島選手の実家「肉のきたじま」では、名物のメンチカツが無料でふるまわれ、近所の人ともどもその喜びを分かち合った。

 涙の北島選手をテレビで見て、ふと、「刻苦光明」という言葉を思い起こした。
 今から300年ほど前のことである。わが国の禅の高僧白隠(はくいん)も、19歳のころは、禅の修行の行き詰まりで悩んだ、といわれる。
 それは、ある禅寺での講座で、「中国、唐代の禅の名僧巌頭(がんとう)和尚は賊に斬殺され、その叫び声が遠くまで響いた」と聞き、「盗賊に殺されるようで、どうして地獄の底から逃れられるか。巌頭にして然り、おれに何が出来るか」と自信も他信も失ってしまう。
 それからというものは彼は、読経や座禅も遠ざけ、文学書や書画に自己をくらます日々を過ごした。

 白隠は、懊悩のまま旅に出た。
 翌年、琵琶湖の近くの瑞雲寺で、蔵書の風入れ(かざいれ=虫干し)を手伝っていたときのことである。
 彼は何を思ったか、書物の山に礼拝して、「わが師となる一冊の良書にめぐり合わさせたまえ」と念じ、眼を閉じて一冊の書を選び、無心に開いてみたのが、『禅関策進(ぜんかんさくしん)』という禅書の「引錐自刺章(錐でわが股を刺す)」の一節であった。
 彼は瞬きもせずに黙読した。
 それは、「慈明(じみょう)という青年求道者が、《刻苦光明必ず盛大(努力すれば必ず光明を得る)》との古人の言を信じ、わが股に錐を刺して、眠気と怠惰を戒めた」との逸話である。

 白隠は、自分を顧みて恥じた。
 「おれは自分の怠惰を棚上げして、小さな主観と経験だけで批判はするが、慈明ほど自分に厳しくしていない。いま自分だけでなく他をも苦しめているのは、わが怠惰と傲慢さからだった」
 と……。
 以後、彼は『禅関策進』を生涯の書とし、「刻苦光明」を座右の銘として、「策進(自分にむちうち進む)」を誓ったという。

 《股に錐を刺す》などと言ったら、人々は笑いとばすであろう。
 しかし、自分に甘えて何が出来るか。
 「最小の努力で最大の効果」をあげるのが、合理的善だとされる。
 けれども、人生にはいつの時代でも、近道や抜け道のない事実を今こそ思い知るべきではないか。
 「刻苦光明」は、現代人に最も必要な座右の銘ではなかろうか。
 北島選手の涙の裏には、人知れぬ「策進」があったに違いない。
 今後も静かに見守りたい。


      生き死にの 金魚すくひの子の袋     季 己

「銅」でもいい

2008年08月10日 23時39分52秒 | Weblog
 ママでも「金」が、ママは「銅」でもいい、になった。そう、「銅」は、「金に同じ」と書くのだから……。
 それにしても、16歳から32歳のママの現在まで、メダルを取り続け、トップアスリートであり続けることは、驚異としか言いようがない。
 逆に考えれば、日本の女子柔道界は、いつまでも「やわらちゃん」に頼っていて、後に続く選手を作れなかった、と言われても仕方がないのではないか。
 確かに選考会では、「やわらちゃん」を破った選手がいた。けれども、その選手を自信を持って北京に送ることをしなかった。「ママ」に頼ってしまったのだ。
 どうかこのへんで、ご本人の自由にさせてあげて欲しい。
 育児・主婦業に専念するもよし、また、これまで通りでもよし、と……。

 能楽の完成者、世阿弥は「初心忘るべからず」と書き残している。また「是非によらず、修行をはじめたころの初心の芸を忘れてはならぬ」とも戒める。
 芸術家にあっては「一生涯が初心である」と言い切っている。言うなれば「日々これ初心」であろう。
 では、アスリートの場合はどうであろうか。スポーツ音痴の変人にはわからない。
 世阿弥は「老後の初心を忘るべからず」とも言っている。
 肉体は枯れるが、それが心の萎えにつながることを戒めているのだ。
 ホイットマンの詩に「老いたるは、なお美わし」があるが、老いて初めて知る美しさ。この美しさを知るのが、「老後の初心」ではなかろうか。
 とかく我々は、現在の自分に妥協してそこに腰を下ろしてしまう。このことは現時点に停止するだけでなく、退歩へ転落することになる。


      八月の女の神山に逢ひにゆく     季 己

のうぜんかづら

2008年08月09日 23時40分00秒 | Weblog
 「源氏千年紀」ということで、それに便乗した本がやたら出版されている。
 その『源氏物語』が書かれた延喜年間に、中国から来たといわれている花の木に“のうぜんかづら”がある。
 夏の盛りに、焔のように赤く咲き誇るのが“のうぜんかづら”である。
 漢字で書くと、「凌□花」(□は、雨カンムリに肖)。
 “のうぜんかづら”は、「大空を凌いで咲く花」と漢字で書くとおり、葡萄の木のように、所々から付着根を生じ、塀や垣根、樹木などにまとい着き、自身の幹を支えて、上へ上へ、天まで昇る勢いで伸びていく寄生木なのだ。
 中には、10メートルもの高さに伸びて、まといついた宿主の木を枯らしてしまうものもある。

 朱赤色の花は、五枚の花弁が端の不揃いな漏斗形で、花筒は4~5センチ、花径は6~7センチの唇形である。厚肥えた艶やかな花弁は、燃えさかる炎のように力強く、梢の先端に群がり咲くさまは実に壮観。

 雲一つなくギラギラと眼も眩むばかりの夏の青空。それを背景にした“のうぜんかづら”の朱赤色は、実に明快なコントラストを構成している。
 したがって、《わび》と《さび》とにくすんだ純日本式庭園には、あまり似合わないが、近代的な洋風のホテルや別荘の庭園なら、効果を発揮すること請け合いである。


      通学の道 のうぜんの花明り     季 己      

猛暑日

2008年08月08日 21時56分12秒 | Weblog
 今日もうだる暑さ。東京は、ことし初の猛暑日とのこと。猛暑日とは、最高気温が35度以上の日をいうらしい。すると、我が部屋は、連日猛暑日。
 今日は午後1時半に家を出たが、その際、室温は39度に達していた。

        おほた子に髪なぶらるる暑さ哉     薗 女

 作者の薗女(そのめ)は、寛文四年(1664)、伊勢山田の神職の家に生まれ、同地の俳医、斯波一有に嫁いだ。貞享頃から俳諧を嗜み、元禄三年(1690)芭蕉の門に入る。
 元禄五年に大坂に移住し、同七年、同地を訪れていた師の芭蕉をその亭に招いたこともある。
 夫と死別後、江戸に出て、其角などと親しく交わった。

 さて、句の「おほた子」は、「おうた子」が正しく、帯で背中に負うて結わえた子ということである。
 じっとしていても汗ばんでくるような暑熱のきびしい日、体温の高い赤子を背負うていると、その体熱が直接伝わって、たいそう暑苦しいのに、背中の子は、無心に指にふれる後ろ髪をもてあそんでいるようで、その暑さといったらまったく言いようもない、といった句意だろう。
 襟元にほつれた後ろ髪も、赤子を背負うことも、暑熱のひどい折には、共に暑苦しく耐え難いものであろう。

 真夏の暑さを、これほど女性的な感覚で直接とらえた句は少ないと思われる。こうした句の世界は、やはり女性独特のもので、男の俳人のよくするところではない。園女の代表作として、最もよく世に知られたものである。
 なお、園女には、夏の涼しさを髪によって詠んだ
        涼しさや襟に届かぬ髪のつと     園 女
 という句もある。


      犬の瞳に眼鏡うつれる暑さかな     季 己

紅の花

2008年08月07日 21時11分33秒 | Weblog
 朝から気分が悪くなるような暑さだった。
 二階の日当たり抜群のわが部屋は、正午過ぎに早くも37.5度。パソコンに濡れタオルを掛けて、ついに部屋から逃げ出す。
 きょう八月七日は、二十四節気の「立秋」、そして旧暦の七月七日、「七夕」でもある。
 暦の上では、今日から秋であるが、暑さの本番はむしろこれからであろう。
 花火の音だけが聞こえてくる。連発の打上げ花火の音だ。そういえば今日は、神宮外苑花火大会。きっと、その音であろう。

        行く末は誰が肌触れむ紅の花     芭 蕉
   「眼の前に、紅の花があざやかに咲いている。紅の花は、やがて紅絹
   (もみ)の染料となり、口紅となるもの。行く末は、どんな美しい人の肌
    に触れることであろうか」
 と思いやる意であろう。
 「誰(た)が肌」はもちろん、女性の肌を意味しているのであって、人の心をくすぐるような柔軟感がある。女性を連想させるだけでなく、白い肌、身に着けた衣装、などのような官能的なものまで感じさせる。
 蝉の声を岩に沁み入らせたり、古池に蛙を飛び込ませたりした人と同じ人が詠んだ句とは、とても思えない。

 元禄十二年刊、支考編の『西華集』に、「此の句いかなる時の作にかあらん、翁の句なるよし、人の伝へ申されしが、題しらず」と付記して収める。
 問題のある句であるが、上記の伝にしたがい、いま、『奥の細道』の折の芭蕉作とみる。
 「紅の花」そのものを直接に把握した発想ではなく、
   「紅の花」⇒「紅粉」⇒「女性の肌」
 という連想の上に成り立った発想であろう。「紅の花」が季語で、夏。

 夏の朝早く、まだ露の乾かぬうちに花を摘んで、紅の顔料を作るのに使う紅花。
 エジプト原産といわれるキク科の多年生草本で、薊に似て、茎や葉・蕾にも刺を持ち、花そのものは、鮮やかな黄色にちょっぴり紅色がまじった橙色の美しい花である。
 ベニバナを材料としたサラダオイルをはじめ、玉虫色に輝く口紅や絵の具、食紅などはすべて、この紅花から作ったものである。

 夏の太陽にさんさんと輝くように咲き乱れているこの橙色の紅花が、口紅となり頬紅となって、何処かの見目麗しき女人に装いを添えるのだろうかと、木石ならぬ芭蕉が、実に垢抜けしたお色気を発揮したのが、前述の一句である。
 もともと、この紅花も、中央アジアから中国に持ち込まれ、さらに日本に伝わったもので、我国で紅(べに)のことを「呉の藍(くれのあい)」すなわち「くれない」というのは、そのためである。

 紅の花は一名、末摘花ともいう。
 『源氏物語』の「末摘花」の、「なつかしき色ともなしになににこのすゑつむ花を袖にふれけむ」あたりを、芭蕉は心に置いているのではなかろうか。
        我が恋は末摘花の蕾かな     子 規
 紅の花を見て、艶めかしい連想をする点では、子規も、芭蕉に負けてはいない。
 末とは、木末・枝先のこと。紅花の咲くにしたがって、末を末をと順に摘んでゆくから末摘花の名が生じたのであろう。
 子規は、それに、『源氏物語』に登場する常陸宮の忘れ形見、容貌といい、性格といい、よくもこれだけ気の毒な女性を設定したものだと、作者紫式部の人格が疑わしくなるような気の毒なヒロインを思い浮かべて、かえって光源氏に摘まれることなく、蕾のままに終わってしまえばよかったのにと、同情したのかも知れない。


     秋立つや母との卓になにか欠け     季 己

西瓜

2008年08月06日 21時23分35秒 | Weblog
 スパッと割った瞬間、涼気がほとばしった。
 西瓜はまさに夏のものであるが、立秋前後、今からが旬ではなかろうか。
 歳時記には、秋として項立てされているが、盛夏の季語と思って詠んでもいいのではないか。
 以前は、淡緑に濃緑の太いうねり縞の入った厚い皮に、中は真紅の肉に黒い種子がいっぱいちりばめられている型がふつうであったが、今は縞のない、種無しが多くなった。果肉も黄色いのが珍しくなくなった。
 最近では核家族向きに、小型のものが改良種として出回っていたり、少人数でも食べられるよう、切られて売られていたりする。
 世の流れのはげしさは、こんなところにもある。

 「西の瓜」と書く通り、西瓜は、熱帯アフリカ原産で、西域、中央アジア方面から、中国に伝わって来たもの、といわれている。それは十三世紀の中頃、元の世祖フビライの時代であったという。
 それが更に、我国に来たのはいつの頃かというと、正確なことは判らない。
 ただ、京都の南禅寺の住職で、五山文学者の筆頭に数えられた義堂周信の詩集、『空華集(くうげしゅう)』に「西瓜ニ和スル詩」というのがあって、
       西瓜、今東海ニ生ズルヲ見る。
       タチワッテ紅ヲ含メバ、玉ノ露濃ヤカナリ。

 義堂は、後小松天皇の嘉慶二年(1388)に六十四歳で亡くなった人だから、西瓜が中国から日本へ伝わるのに、百年はかかったことになる。
 ところが、応仁の乱以後、戦国の乱世を経て、しばらくは西瓜を栽培している余裕が無かったからか、我国で再び西瓜が栽培されるようになったのは、江戸時代の初めといわれている。
  ・寛永年間に、肥前の国へ伝わってから後。
  ・慶安年間に、黄檗宗の隠元禅師が、明(みん)から日本へ渡ってきた
   とき、隠元豆と一緒に、西瓜の種子を持って来た。
 など、さまざまな説があるが、とにかく、六百年以上昔の、義堂周信の詩には、きわめて写実的な描写がなされていると思う。


      西瓜切る天上大風濡れぶきん     季 己

夏扇

2008年08月05日 21時55分13秒 | Weblog
 雷・豪雨・中休み、雷・豪雨・中休みの繰り返しで、東京はさんざんな一日であった。
 雷雨の中休みをねらって、コンビニに振込みに行く。といっても振り込め詐欺ではないのでご安心を。
 例の、地方自治法施行60周年記念千円銀貨幣プルーフ貨幣セット(北海道)の代金の払込である。
 10万枚の発行に対して、6倍強の申し込みがあり、6月下旬には、その抽選会が終わっていたようだ。7月が終わっても払込通知が来ないので、一つも当たらなかったとあきらめていた。
 妹の家族の名義まで借りて、24枚のハガキを出したのだ。全滅と思いきや、昨日になって、3通の払込のご案内、つまり当選通知が来た、というわけだ。

 この千円銀貨幣は、製造原価が千円を越えるので、販売価格は6000円。
 それがもう、T社では12000円、Y社では15000円で販売するとの広告が出ている。
 またネットでは、交換手数料と称するものの入札まで行なわれている。造幣局の販売価格6千円にいくら上乗せするかということらしい。
 3500円・5250円・5500円などとあるなかに、30500円という驚くべき金額があった。高いので有名なY社でさえ、1枚15000円で買えるのだ。たとえ30500円で落札しても、それに6000円プラス送料500円、合計37000円になってしまう。T社へ行けば、3枚も買える。他人の懐であっても心配になってしまう。

 まだ遠くで雷が鳴っているようだが、大雨の心配はなさそうだ。昨晩の今頃の室温は33.5度であったが、今は29.5度である。これなら今夜はよく眠れそうだ。
 そういえば、明後日(8月7日)は立秋。

 秋とともに忘れられるとは言いながら、夏の暑さには手放すことのできないものが扇である。
 この扇というものは、日本人の発明であるらしく、中国から来たものは団扇であるという。つまり、団扇を折りたたみ式に改良したのが、日本の扇ということらしい。
 扇という文字が、日本の歴史に初めて記録されたのは、『続日本紀』淳仁天皇の天平宝字六年(762)八月二十日の条に、
  「御史大夫文室ノ真人浄三、年老イ力衰ヘタルヲ以テ、優詔シテ特ニ宮中
   ニシテ扇ヲ持チ杖ヲツクコトヲユルス」
 とあるのがそれだが、陰暦の八月という季節からして、それが夏扇であったか、冬扇であったかはわからない。

 冬扇というのは、檜の薄板を重ねたもので、主として、宮中の女性が顔を隠すのに用いた装飾用の檜扇であった。
 『枕草子』第八十四段「なまめかしきもの」の条に、
  「三重がさねの扇、五重はあまり厚くなりて、もとなど憎げなり」
 とあることから、長さ30センチ、厚さ幅共に5ミリくらいの四角い檜材を、薄く八枚に割いた一組を一重とし、それを三組重ねたのが標準的な三重がさねの檜扇だと考えられる。
 これに対して、夏扇は、木や竹の骨に紙や絹を貼った軽いもので、もっぱら納涼用に用いられた。
 こうなると、前述の『続日本紀』に、文室浄三が所持を許された扇とは、装飾用か納涼用か、まったく判らなくなる。
 『枕草子』第三十二段に、
  「朴・塗骨など、骨はかはれど、ただ赤き紙を、おしなべてうち使ひ持
   たまへるは、なでしこのいみじう咲きたるにぞいとよく似たる」
 とあるのは、五行思想からいって、夏の色は赤(朱)であり、いかにも暑い感じの赤色がかえって、暑さには暑さを以って克服しようという意気込みの、真っ赤な夏扇だったのであろう。


      ひとかどの笛吹きのごと扇買ふ     季 己

霧の海

2008年08月04日 23時37分41秒 | Weblog
        霧の海の底なる月はくらげ哉     立 圃
 
 この句の季語から、まず考えてみたい。
 「霧」と「月」は秋の季語で、「くらげ」は夏の季語である。
 一見、季語が三つのように思えるが、「くらげ」は喩えで、「くらげ」のようだということで、これは季語ではない。したがって、この句の季語は「霧」と「月」で秋ということになる。

 「霧の海」は、霧が一面にたちこめているさまを海に見立てたものである。
 作者の師である貞徳の著、『御傘(ごさん)』にもこの語は採用され、貞門の撰集には多くの句例を見ることができる。
 この霧の海の縁によって、月を海中の海月(くらげ)と見立てたのである。
 いまから千七百年ほど前に書かれた『和名抄』に、
   「海月  一名水母、久良介(クラゲ)、貌(かたち)月ニ似テ、海中
    ニ在リ、故ニ以テ之ノ名トス」
 とあり、月と海月は連想でつながっている。

 さらに、「海月」は「暗げ」を言い掛けるが、この方法は、しばしば和歌では用いられていて、
                    弁乳母
        山のはを 出づるのみこそ さやけけれ
          海なる月の くらげなるかな  (『続千載集』)
                    藤原親定母
        深くすむ 千ひろの底も 見るべきに
          くらげに見ゆる 海の月哉  (『後葉集』)
 などの例が見られる。
 とくに、後者の歌の七七と、立圃のこの句とは共通の発想をしており、注目に値しよう。

 一句は、一面の霧の中に浮かぶ月は、海の底に暗くぼんやり見える海月のようで、かすんでおぼろげに見える、ということであろう。
 天上の月を海底にもっていったところや、月を海月に見立てて、そのうえに海月を暗げに掛ける点など、発想の契機はすべて和歌の技法の世界のものであるが、一句としてまとまったものとなっており、霧の海の月のイメージをよく伝えて、幻想的な美しささえ読者に与えている。秀作というべきであろう。


      落雷やギリシャに写楽肉筆画     季 己

安見児得たり

2008年08月03日 21時47分32秒 | Weblog
 先日の「日本語ボランティア養成講座」でのことである。
 日本語教室に習いに来る外国人は、ほとんどが既婚女性とのこと。
 その女性のパートナーを、日本語でどう呼ぶように教えるかが、話題になった。
 結論から言うと、「主人」か「夫」はOKで、「旦那」は絶対にダメだと、講座の先生はおっしゃる。
 ちなみに、二十数名の受講生(女性)は、2対1くらいの割合で「主人」が多く、「旦那」は皆無であった。
 「夫」派はやはり、「主人」という言葉に、主従関係を想起し、抵抗があるという意見が圧倒的だった。
 それに対し「主人」派は、隷属意識もなく、何の抵抗も感じないとのこと。もちろん「ご主人さま」と呼ぶ人は誰もいない。
 それでは男性から女性を呼ぶには、ということで男性軍にお鉢が回って来た。
 男性軍といっても、受講生はたった3人。
 最年長の方は「家内」、最年少の方は「かみさん」、そして変人は「一度でいいから、何とか呼んでみたい。これまでずっと毒のある身なもんで」と答えるしかなかった。女性の先生はあわてて、「これは大変失礼しました」……。

                   藤原鎌足
        われはもや 安見児得たり 皆人の
          得がてにすとふ 安見児得たり (『萬葉集』巻二)
 内大臣、藤原鎌足が、采女の安見児(やすみこ)を娶ったときに作った歌である。
 一首は、吾は今、まことに美しい安見児を娶った。世の人々の容易に得がたいとした、美しい安見児を娶った、というのであろう。
 「われはもや」の「もや」は詠嘆の助詞で、感情を強めている。「まあ」とか、「まことに」とか、「実に」とかを加えて解せばいい。

 この歌の歓喜は、大勢の競争相手と争ってついに安見児を手に入れた時のことだ、というように思いがちだが、これはそうではない。
 采女(うねめ)は、諸国の王族の娘が宮廷に奉られ、宮廷の神に奉仕するもので、これに人が女として手を触れることは許されなかった。
 長い歴史のうえではそういうこともおこったろうが、仮にそういう時であったら、こうまで開けっ広げに、喜びを歌いあげられるものではない。
 宮廷における采女に、人数に余りが生じたときには、王族や貴族に下し賜わることがあった。これはそういう場合で、宮中の奥深くにいて、とても手に入れられそうもなかった安見児を、鎌足がいただいたのだから、「皆人の得がてにすとふ」の句があるのだ。
 この歌、二句と五句とに同じ文句を繰り返しているところに、おどるような調子が出ている。
 その得がたい安見児を、天下晴れてわがものにしたという喜びを、これは端的に歌いあげたもので、新婚の宴席での祝賀の歌である。
 こういう即興歌は、一見、無技巧な真情吐露が強く訴えるのである。


     暑し暑し内閣の顔替はれども     季 己

くらげ

2008年08月02日 23時31分36秒 | Weblog
 “前”がつく国のくらげは食用になる、などといわれて、越前くらげや備前くらげの粕漬・二杯酢は珍味として、呑助に好まれている。
 これに反して、赤くらげ・行灯くらげ・天草くらげ・火くらげなどは、長い触手に激毒があって、海水浴の客が刺されることがある。
 このように、くらげには多くの種類があるが、無色なのが、港に大発生してゆらゆらと漂い、傘をあおって泳ぐ姿は、こっけいであり不気味でもある。
 潮の流れのままに漂うくらげの姿は、見ようによっては、己の運命を委ねきった心易さを思わせる。
 くらげは、いったい何を考えているのだろう。何を食べて生きているのだろう。

 源平合戦の頃の武将、源仲正の歌に、
        わが恋は 海の月をぞ 待ちわたる
          海月の骨に 逢ふ世ありやと
 というのがあるが、いつまでも適えられることのない恋の侘しさを、骨のない海月が、いつになったら骨を身につけて、人並みに身なりを整えることが出来るのだろうという心もとなさに掛けて詠んだものである。

 『枕草子』には、一条天皇の中宮定子の御所に、中宮の弟の隆家がやって来て、「すばらしい扇の骨が手に入ったが、これには滅多な紙は貼れたものではない」と得意になっているので、清少納言が、「一体どんな骨でございますか」と尋ねると、「いやもう、全然見たこともない骨だ」とおっしゃるので、「それではきっと海月の骨ですね」とからかって、大笑いになったという話がある。
 絶対に無いものと相場のきまった海月が、骨なしになった訳には、誰でも知っているお伽話がある。

 龍宮の乙姫様が、ご病気になられた。それには猿の生き胆が効くというので、猿の生き胆を取ってくる使いに、海月が選ばれた。
 早速、猿の所へ出かけた海月が、言葉巧みに猿を連れ出したはしたものの、何のご用かと聞かれ、ついうっかり、生き胆を薬にすると洩らしたので、そこは智恵の働く猿が、「それならそうと早く言って下さればよいのに、今日、私は生き胆を洗濯して、枝に干しておいたから、このまま行っても乙姫様のお役には立ちますまい。早速、帰って取って来ましょう」と、逃げてしまった。
 まんまと騙された海月が、その罰に、骨を抜かれて、龍宮を追放されてしまったという話である。

 ところで、「くらげ」はふつう「海月」あるいは「水母」と書くが、山口誓子は「水月」と書いている。
 「くらげ」を海の月と書くのは、海面にぽっかりと浮く「くらげ」を月に見立てたからであろう。すると、誓子は、水面に浮く「くらげ」を月に見立てたのかもしれない。
 では、水に母と書くのは……?


      海月浮くわれも静かにおよがねば     季 己