大津 義仲庵(ぎちゅうあん)に於いて
三井寺の門たたかばやけふの月 芭 蕉
「今夜の名月はまことにすばらしく、月見の興はなかなかどうして
尽きそうにない。この上は、名月にゆかりある三井寺の月下の門
を、漢詩の趣のごとくに、たたきたいものだ」
元禄四年、八月十五夜のことである。
芭蕉は、義仲寺無名庵に、門弟たちと相会した。
琵琶湖に舟を浮かべ、深更、千那(せんな)・尚白(しょうはく)を訪ねて驚かしたあげくの、五更(午前三時~五時)過ぎの作のようである。
「三井寺」は、大津にある園城寺(おんじょうじ)の通称である。仲秋名月の夜のことを扱った謡曲『三井寺』の舞台でもある。
謡曲は、当時、俳人たちの常識であり、この芭蕉の句も謡曲『三井寺』を踏まえている。
「今夜は八月十五夜名月にて候ふほどに、幼き人を伴なひ申し、皆々講堂の庭に出でて、つきを眺めばやと存知候」
と謡曲『三井寺』にある。また、
「月の誘はばおのづから、舟も焦がれて出づらん、舟人も焦がれ出づらん」
ともあるから、湖へ漕ぎ出した人々は、謡曲『三井寺』を思い出していたに違いない。
そこで芭蕉は、「月を眺めばや」を、その三井寺の「門たたかばや」と興じたのであろう。「門」は、「カド」ではなく「モン」と読みたい。
「門たたかばや」は、「推敲」の故事として有名な、『鳥は宿す池中の樹、僧は敲く月下の門』が、心に生きていて働いたものである。
「ばや」は、願望(……したい)・意志(……しよう)などの意を持つ終助詞である。
「けふの月」は、仲秋名月のことをいい、秋。
月に興じて、漢詩の古典的世界を思い描いている発想であろう。
「月」といえば、浄土宗の宗祖・法然上人の有名な歌
月かげの いたらぬ里は なけれども
眺むる人の こころにぞすむ
がある。
「月かげ」は、月光に照らし出されたものの影ではなく、月の光そのもののことである。
月光が地上を隈なく照らしている事実を、「月かげのいたらぬ里はなけれども」と詠んだのだ。
下の句の「眺むる人のこころにぞすむ」は、“澄む”と“住む”とを掛けた、掛詞(かけことば)である。
月かげ、すなわち真理・教えの届かぬ所はない。誰もの心の中に仏性が住む、心が清澄になれば、月かげが自然に宿るであろうと……。
月光を浴びながら、月光を身や心に感得しなかったら、月光はただ空しく流れるだけだ。
それに引きかえ、月光を仰ぎ、月光を拝む人には、月光はその心の奥底まで輝く。
テレビのニュースで、ちらっと見たのだが、男子体操で銀メダルを獲得した内村選手の競技中、お母さんが合掌して、何かぶつぶつ呟いていた。変人には「ナムアミダブ」と言っているように見えたが……。
いまの室温32度。目の前の窓を開け放って、パソコンと格闘をしている。陰暦七月の十五夜を見ながら。
名月や鎌倉にある伯父の墓 季 己
三井寺の門たたかばやけふの月 芭 蕉
「今夜の名月はまことにすばらしく、月見の興はなかなかどうして
尽きそうにない。この上は、名月にゆかりある三井寺の月下の門
を、漢詩の趣のごとくに、たたきたいものだ」
元禄四年、八月十五夜のことである。
芭蕉は、義仲寺無名庵に、門弟たちと相会した。
琵琶湖に舟を浮かべ、深更、千那(せんな)・尚白(しょうはく)を訪ねて驚かしたあげくの、五更(午前三時~五時)過ぎの作のようである。
「三井寺」は、大津にある園城寺(おんじょうじ)の通称である。仲秋名月の夜のことを扱った謡曲『三井寺』の舞台でもある。
謡曲は、当時、俳人たちの常識であり、この芭蕉の句も謡曲『三井寺』を踏まえている。
「今夜は八月十五夜名月にて候ふほどに、幼き人を伴なひ申し、皆々講堂の庭に出でて、つきを眺めばやと存知候」
と謡曲『三井寺』にある。また、
「月の誘はばおのづから、舟も焦がれて出づらん、舟人も焦がれ出づらん」
ともあるから、湖へ漕ぎ出した人々は、謡曲『三井寺』を思い出していたに違いない。
そこで芭蕉は、「月を眺めばや」を、その三井寺の「門たたかばや」と興じたのであろう。「門」は、「カド」ではなく「モン」と読みたい。
「門たたかばや」は、「推敲」の故事として有名な、『鳥は宿す池中の樹、僧は敲く月下の門』が、心に生きていて働いたものである。
「ばや」は、願望(……したい)・意志(……しよう)などの意を持つ終助詞である。
「けふの月」は、仲秋名月のことをいい、秋。
月に興じて、漢詩の古典的世界を思い描いている発想であろう。
「月」といえば、浄土宗の宗祖・法然上人の有名な歌
月かげの いたらぬ里は なけれども
眺むる人の こころにぞすむ
がある。
「月かげ」は、月光に照らし出されたものの影ではなく、月の光そのもののことである。
月光が地上を隈なく照らしている事実を、「月かげのいたらぬ里はなけれども」と詠んだのだ。
下の句の「眺むる人のこころにぞすむ」は、“澄む”と“住む”とを掛けた、掛詞(かけことば)である。
月かげ、すなわち真理・教えの届かぬ所はない。誰もの心の中に仏性が住む、心が清澄になれば、月かげが自然に宿るであろうと……。
月光を浴びながら、月光を身や心に感得しなかったら、月光はただ空しく流れるだけだ。
それに引きかえ、月光を仰ぎ、月光を拝む人には、月光はその心の奥底まで輝く。
テレビのニュースで、ちらっと見たのだが、男子体操で銀メダルを獲得した内村選手の競技中、お母さんが合掌して、何かぶつぶつ呟いていた。変人には「ナムアミダブ」と言っているように見えたが……。
いまの室温32度。目の前の窓を開け放って、パソコンと格闘をしている。陰暦七月の十五夜を見ながら。
名月や鎌倉にある伯父の墓 季 己