壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

藤村忌

2008年08月22日 21時57分55秒 | Weblog
 島崎藤村が小諸義塾の教師となって、その町へ赴任したのは、いまから109年前、すなわち藤村、二十八歳の春のことである。
 そのころの小諸は、それこそ山麓の小さな町だった、という。
 懐古園の断崖から望む千曲川の流れは、いまでは発電所のダムが出来て展望が変わった。
 人口が増え、町も広くなり、観光客も多い。そんなふうに町の風物は変化したけれども、懐古園を訪れる人のほとんどが、108年前の「小諸なる古城のほとり」を愛誦し、その情趣をとおして懐古園や千曲川の流れを見る。

      小諸なる古城のほとり
      雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
      緑なすはこべは萌えず
      若草もしくによしなし
      しろがねのふすまの岡辺
      日に溶けて淡雪流る

      あたゝかき光はあれど
      野に満つる香もしらず
      浅くのみ春は霞みて
      麦の色はつかに青し
      旅人の群はいくつか
      畠中の道を急ぎぬ

      暮れ行けば浅間も見えず
      歌哀し佐久の草笛
      千曲川いざよふ波の
      岸近き宿にのぼりつ
      濁り酒濁れる飲みて
      草枕しばし慰む

 この詩は、「秋風の歌」と並んで、藤村詩中の双璧と称せられているものである。「秋風の歌」が、藤村の処女詩集たる「若菜集」中の逸品であるに対し、この詩は、藤村の最後の詩集たる「落梅集」中、随一の名作である。
 これは、藤村が長野県の小諸に来て二年目、すなわち明治三十三年(1900)の初春に成ったものである。
 これがうたわれた場所が、小諸の懐古園であることは言うまでもないが、いま、これが園内に詩碑として建てられている。
 その碑は、有島生馬の意匠になり、文字は、藤村自身の筆になったもの。
 懐古園に遊ぶ者の、まず第一に観るものとなっている。

 第一連は、小諸城址の早春の寂しい景色をうたっている。
 すなわち、空には白雲がところ定めず漂い、地上には日に溶けゆく淡雪が見られるだけで、草もまだ伸びていない、と深い感傷に浸っている。
 濃く澄んだ青空を背景として、ふわりふわりと飛びゆく白雲と、故郷を離れてさすらう遊子との間には、一脈相通じるものがある。
 こうした古城のもたらす寂しさと、わびしい早春の旅情とは、そくそくとして作者の胸に迫り、「遊子悲しむ」と歎息せしめずにはおかなかったのであろう。
 この遊子旅情の悲しみが、この詩全編の基調をなしていることは否めない。
 ひるがえって思うに、作者は長野県筑摩郡神坂村の出身で、しかもこの詩を作ったときには、小諸に居を構えていたのであるから、「遊子」という語が大げさで、いささか穏当を欠くようであるが、作者は九歳の時、故郷を去って以来、それに身をよせることがほとんどなく、大部分を旅先で過ごした関係上、小諸にいることがむしろ、旅先にあるような感じがしたであろう。それに、人間の一生をば、悠久無限な永生の一旅程とも感じたのであろう。
 こう考えると、「遊子」と言ったのも無理はないと思われる。

 第二連。暖かい春の光に照らし出されている山麓の野に眼を放ち、いったいに赤茶けた陰鬱な光景の中に、わずかに麦の青い色を認めたところに、早春のわびしさがよく表れている。
 ここに畑中を急ぎ行く幾群れかの旅人を点出したのも、早春のわびしさを強める上に非常に効果的である。この旅人は、おそらく行商人であろうが、「急ぎぬ」という表現によって、早春の寒さを思わせる。

 第三連は、時が過ぎて夕方となる。
 いつしか浅間山は姿を隠し、佐久平にも夕闇が訪れた。草笛の音は、調べ哀しく夕闇の中を流れてくる。
 作者は旅愁やらんかたなく、千曲河畔の旅宿に入って、濁り酒に心を紛らしたのである。
 「濁り酒濁れる飲みて」の句によって、作者の境涯と旅宿のさまとが想像される。

 この憂愁はどこからくるのであろうか。東京を離れて知らぬ土地へ移ったことのわびしさか。孤独感か。そのいずれでもあり、いずれでもなかった。
 憂愁は、まさに青春の終わろうとすることの何ともいえない傷みであり、青春の光彩の消えようとすることの悲しみであった。

 全編を通じて、主観的な語が少なく、客観的な叙景・叙事に托して、平静な抒情に終始している。こういうところに、「若菜集」時代の詩に見えるような純抒情詩から離れて、新しい境地を開こうとする試みが見える。

 きょう八月二十二日は、詩人・小説家、島崎藤村の忌日である。昭和十八年、変人の生まれた年に、71歳で亡くなった。


      山の木にみどり落ちつき法師蝉     季 己