壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

壺中の天地

2008年08月01日 21時56分56秒 | Weblog
 きょうから八月。「瀬戸内寂聴 卓上カレンダー」の8月に、
    恥ずかしくても構わない、本当の自分を
    さらけ出して、ひたすら真正直に生きて
    いきましょう。嘘は万病の元になります。
 とある。

 嘘・偽りの何と多いことか。そのなかでも最も許せないのが、振り込め詐欺である。それにしても、どうして易々と引っかかってしまうのだろう。
 拙宅にも毎日のように電話がある。
 受話器はとってもこちらからは一切、声を発しない。相手も何も言わない。こうして4~5分放っておく。
 また、なかにはモシモシ、モシモシを連発する人もいる。これにも変人は応えない。亀ではないので。
 どうして自分の姓名を名乗れないのだろうか。先ず自分が名乗り、○○さんのお宅ですか?と確かめるのが当たり前ではないのか。
 自分が偽装しているから、名乗れないのであろう。食品の偽装同様、人間の偽装もいつかは……。

 今から千九百年以上前のこと、中国の汝南という市中で売薬を業とするひとりの老人がいた。彼は店に一つの壺を掛けていたので、人々は彼を「壺公(ここう)」と呼んだ。
 壺公が調剤する薬はよく効くし価格も安いので、みんなから慕われていた。
 ところが不思議なことに、壺公は夕暮れに店じまいをすると、店先の壺の中へ飛び込んで姿を消すのだが、誰もそれを見た者がない。
 たまたま市の役人の費長房(ひちょうぼう)が、城の望楼からこの事実を見つけ、不審と畏敬の念を抱いて壺公に近づこうとする。
 壺公は費長房の思惑を察知して、ひそかに彼を小さな壺の中に招き入れる。彼は怪しみながら身をこごめて壺の中に入ってみると、壺の中は想像もできないような広大な庭園で、素晴らしい宮殿もあるではないか。
 費長房は、この宮殿の主人が壺公であることを知り、歓待を受けて辞去するが、その際、壺公から固く口止めされる。
 壺公は実は仙人であった、という物語が『後漢書』に見える。

 この物語をふまえて、禅門で、人智を越えた悟りの境地を「壺中の天地」・「壺中日月長」・「別是一壺天」と表現する。
 悟りは、空間や時間の制約を受けることなく自由であり、無限のはたらきをするのを、前述のような熟語で象徴する。
 人生論的に味わうなら、限られた時間の制約を受けつつも、しかも時間の束縛を受けることなく、逆に、時間を使役する充実した人生の歩み方を示しているのだと思う。
 つまり、我々が時間に使われるか、有限の時間を、もののみごとに自由に使いこなすかである。
 壺中はまた狭い場所を示す。狭い所でも、心さえ広やかなら、狭さにわずらわされることなく、これまた、豊かな生活も人生も楽しむこともできる、ということである。


      たらちねの曲がり胡瓜の胡瓜揉み     季 己