朝から気分が悪くなるような暑さだった。
二階の日当たり抜群のわが部屋は、正午過ぎに早くも37.5度。パソコンに濡れタオルを掛けて、ついに部屋から逃げ出す。
きょう八月七日は、二十四節気の「立秋」、そして旧暦の七月七日、「七夕」でもある。
暦の上では、今日から秋であるが、暑さの本番はむしろこれからであろう。
花火の音だけが聞こえてくる。連発の打上げ花火の音だ。そういえば今日は、神宮外苑花火大会。きっと、その音であろう。
行く末は誰が肌触れむ紅の花 芭 蕉
「眼の前に、紅の花があざやかに咲いている。紅の花は、やがて紅絹
(もみ)の染料となり、口紅となるもの。行く末は、どんな美しい人の肌
に触れることであろうか」
と思いやる意であろう。
「誰(た)が肌」はもちろん、女性の肌を意味しているのであって、人の心をくすぐるような柔軟感がある。女性を連想させるだけでなく、白い肌、身に着けた衣装、などのような官能的なものまで感じさせる。
蝉の声を岩に沁み入らせたり、古池に蛙を飛び込ませたりした人と同じ人が詠んだ句とは、とても思えない。
元禄十二年刊、支考編の『西華集』に、「此の句いかなる時の作にかあらん、翁の句なるよし、人の伝へ申されしが、題しらず」と付記して収める。
問題のある句であるが、上記の伝にしたがい、いま、『奥の細道』の折の芭蕉作とみる。
「紅の花」そのものを直接に把握した発想ではなく、
「紅の花」⇒「紅粉」⇒「女性の肌」
という連想の上に成り立った発想であろう。「紅の花」が季語で、夏。
夏の朝早く、まだ露の乾かぬうちに花を摘んで、紅の顔料を作るのに使う紅花。
エジプト原産といわれるキク科の多年生草本で、薊に似て、茎や葉・蕾にも刺を持ち、花そのものは、鮮やかな黄色にちょっぴり紅色がまじった橙色の美しい花である。
ベニバナを材料としたサラダオイルをはじめ、玉虫色に輝く口紅や絵の具、食紅などはすべて、この紅花から作ったものである。
夏の太陽にさんさんと輝くように咲き乱れているこの橙色の紅花が、口紅となり頬紅となって、何処かの見目麗しき女人に装いを添えるのだろうかと、木石ならぬ芭蕉が、実に垢抜けしたお色気を発揮したのが、前述の一句である。
もともと、この紅花も、中央アジアから中国に持ち込まれ、さらに日本に伝わったもので、我国で紅(べに)のことを「呉の藍(くれのあい)」すなわち「くれない」というのは、そのためである。
紅の花は一名、末摘花ともいう。
『源氏物語』の「末摘花」の、「なつかしき色ともなしになににこのすゑつむ花を袖にふれけむ」あたりを、芭蕉は心に置いているのではなかろうか。
我が恋は末摘花の蕾かな 子 規
紅の花を見て、艶めかしい連想をする点では、子規も、芭蕉に負けてはいない。
末とは、木末・枝先のこと。紅花の咲くにしたがって、末を末をと順に摘んでゆくから末摘花の名が生じたのであろう。
子規は、それに、『源氏物語』に登場する常陸宮の忘れ形見、容貌といい、性格といい、よくもこれだけ気の毒な女性を設定したものだと、作者紫式部の人格が疑わしくなるような気の毒なヒロインを思い浮かべて、かえって光源氏に摘まれることなく、蕾のままに終わってしまえばよかったのにと、同情したのかも知れない。
秋立つや母との卓になにか欠け 季 己
二階の日当たり抜群のわが部屋は、正午過ぎに早くも37.5度。パソコンに濡れタオルを掛けて、ついに部屋から逃げ出す。
きょう八月七日は、二十四節気の「立秋」、そして旧暦の七月七日、「七夕」でもある。
暦の上では、今日から秋であるが、暑さの本番はむしろこれからであろう。
花火の音だけが聞こえてくる。連発の打上げ花火の音だ。そういえば今日は、神宮外苑花火大会。きっと、その音であろう。
行く末は誰が肌触れむ紅の花 芭 蕉
「眼の前に、紅の花があざやかに咲いている。紅の花は、やがて紅絹
(もみ)の染料となり、口紅となるもの。行く末は、どんな美しい人の肌
に触れることであろうか」
と思いやる意であろう。
「誰(た)が肌」はもちろん、女性の肌を意味しているのであって、人の心をくすぐるような柔軟感がある。女性を連想させるだけでなく、白い肌、身に着けた衣装、などのような官能的なものまで感じさせる。
蝉の声を岩に沁み入らせたり、古池に蛙を飛び込ませたりした人と同じ人が詠んだ句とは、とても思えない。
元禄十二年刊、支考編の『西華集』に、「此の句いかなる時の作にかあらん、翁の句なるよし、人の伝へ申されしが、題しらず」と付記して収める。
問題のある句であるが、上記の伝にしたがい、いま、『奥の細道』の折の芭蕉作とみる。
「紅の花」そのものを直接に把握した発想ではなく、
「紅の花」⇒「紅粉」⇒「女性の肌」
という連想の上に成り立った発想であろう。「紅の花」が季語で、夏。
夏の朝早く、まだ露の乾かぬうちに花を摘んで、紅の顔料を作るのに使う紅花。
エジプト原産といわれるキク科の多年生草本で、薊に似て、茎や葉・蕾にも刺を持ち、花そのものは、鮮やかな黄色にちょっぴり紅色がまじった橙色の美しい花である。
ベニバナを材料としたサラダオイルをはじめ、玉虫色に輝く口紅や絵の具、食紅などはすべて、この紅花から作ったものである。
夏の太陽にさんさんと輝くように咲き乱れているこの橙色の紅花が、口紅となり頬紅となって、何処かの見目麗しき女人に装いを添えるのだろうかと、木石ならぬ芭蕉が、実に垢抜けしたお色気を発揮したのが、前述の一句である。
もともと、この紅花も、中央アジアから中国に持ち込まれ、さらに日本に伝わったもので、我国で紅(べに)のことを「呉の藍(くれのあい)」すなわち「くれない」というのは、そのためである。
紅の花は一名、末摘花ともいう。
『源氏物語』の「末摘花」の、「なつかしき色ともなしになににこのすゑつむ花を袖にふれけむ」あたりを、芭蕉は心に置いているのではなかろうか。
我が恋は末摘花の蕾かな 子 規
紅の花を見て、艶めかしい連想をする点では、子規も、芭蕉に負けてはいない。
末とは、木末・枝先のこと。紅花の咲くにしたがって、末を末をと順に摘んでゆくから末摘花の名が生じたのであろう。
子規は、それに、『源氏物語』に登場する常陸宮の忘れ形見、容貌といい、性格といい、よくもこれだけ気の毒な女性を設定したものだと、作者紫式部の人格が疑わしくなるような気の毒なヒロインを思い浮かべて、かえって光源氏に摘まれることなく、蕾のままに終わってしまえばよかったのにと、同情したのかも知れない。
秋立つや母との卓になにか欠け 季 己