壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

八月十五夜

2008年08月14日 21時40分57秒 | Weblog
          大津 義仲庵(ぎちゅうあん)に於いて        
        三井寺の門たたかばやけふの月     芭 蕉

   「今夜の名月はまことにすばらしく、月見の興はなかなかどうして
    尽きそうにない。この上は、名月にゆかりある三井寺の月下の門
    を、漢詩の趣のごとくに、たたきたいものだ」

 元禄四年、八月十五夜のことである。
 芭蕉は、義仲寺無名庵に、門弟たちと相会した。
 琵琶湖に舟を浮かべ、深更、千那(せんな)・尚白(しょうはく)を訪ねて驚かしたあげくの、五更(午前三時~五時)過ぎの作のようである。

 「三井寺」は、大津にある園城寺(おんじょうじ)の通称である。仲秋名月の夜のことを扱った謡曲『三井寺』の舞台でもある。
 謡曲は、当時、俳人たちの常識であり、この芭蕉の句も謡曲『三井寺』を踏まえている。
 「今夜は八月十五夜名月にて候ふほどに、幼き人を伴なひ申し、皆々講堂の庭に出でて、つきを眺めばやと存知候」
 と謡曲『三井寺』にある。また、
 「月の誘はばおのづから、舟も焦がれて出づらん、舟人も焦がれ出づらん」
 ともあるから、湖へ漕ぎ出した人々は、謡曲『三井寺』を思い出していたに違いない。
 そこで芭蕉は、「月を眺めばや」を、その三井寺の「門たたかばや」と興じたのであろう。「門」は、「カド」ではなく「モン」と読みたい。
 「門たたかばや」は、「推敲」の故事として有名な、『鳥は宿す池中の樹、僧は敲く月下の門』が、心に生きていて働いたものである。
 「ばや」は、願望(……したい)・意志(……しよう)などの意を持つ終助詞である。
 「けふの月」は、仲秋名月のことをいい、秋。
 月に興じて、漢詩の古典的世界を思い描いている発想であろう。

 「月」といえば、浄土宗の宗祖・法然上人の有名な歌
        月かげの いたらぬ里は なけれども
          眺むる人の こころにぞすむ
 がある。
 「月かげ」は、月光に照らし出されたものの影ではなく、月の光そのもののことである。
 月光が地上を隈なく照らしている事実を、「月かげのいたらぬ里はなけれども」と詠んだのだ。
 下の句の「眺むる人のこころにぞすむ」は、“澄む”と“住む”とを掛けた、掛詞(かけことば)である。

 月かげ、すなわち真理・教えの届かぬ所はない。誰もの心の中に仏性が住む、心が清澄になれば、月かげが自然に宿るであろうと……。
 月光を浴びながら、月光を身や心に感得しなかったら、月光はただ空しく流れるだけだ。
 それに引きかえ、月光を仰ぎ、月光を拝む人には、月光はその心の奥底まで輝く。

 テレビのニュースで、ちらっと見たのだが、男子体操で銀メダルを獲得した内村選手の競技中、お母さんが合掌して、何かぶつぶつ呟いていた。変人には「ナムアミダブ」と言っているように見えたが……。

 いまの室温32度。目の前の窓を開け放って、パソコンと格闘をしている。陰暦七月の十五夜を見ながら。


      名月や鎌倉にある伯父の墓     季 己