その後、大津の木節亭にあそぶとて
ひやひやと壁をふまへて昼寝かな 芭 蕉
出典は『笈日記』。
前書きの「その後」は、前文を受けて、去来の落柿舎滞在の後の意であって、元禄七年(1694)六月二十日ごろと推定される。
木節(ぼくせつ)は、大津の医師で芭蕉の門人。篤実な人だったので、芭蕉の信頼を得ており、この年の十月、芭蕉が大坂で倒れたときも駆けつけ、芭蕉は治療の一切を木節に任せた。
句意は、「だるく物憂いので、ごろりと寝ころんで足を壁にあてて昼寝をしていると、ひいやりとした感触があって、残暑厳しい中にあっても、さすがにもう初秋を感じさせることである」というのである。
支考の『笈日記』によれば、芭蕉が支考に、この句をどう理解するかと尋ねたので、支考が「残暑の句だと思います」と答え、さらに「かならず蚊帳の釣手など手にからまきながら、思ふべき事をおもひ居ける人ならん」と言ったところ、芭蕉は、この句の謎は支考に解かれた、といって笑ったそうである。
「思ふべき事」というのは、このときの芭蕉の身辺の事情から考えて、江戸にいた寿貞の死のことと推察される。
この句の季語は「ひやひや」で、「冷ややか」と同じく初秋の季語である。
ちなみに、このころはまだ「昼寝」は季語でなく、「昼寝」が季語になったのは江戸末期である。
「ひやひや」は、秋になってようやく冷気を覚えることをいうが、この句の場合は、支考が「残暑」だと言い、また門人の路通も「残暑の心を」と言っていて、残暑のけだるい気分の中で、わずかに壁に足をつけて冷気を覚えるというのであり、全体としては残暑の気分の句のようである。
だから、「昼寝かな」とはあるが、ぐっすり眠り込んでいる昼寝ではなく、横になって鬱々と物思いに沈みながら、眼を閉じているさまであろう。
ゴーガンの紅き腰巻 夏惜しむ 季 己
ひやひやと壁をふまへて昼寝かな 芭 蕉
出典は『笈日記』。
前書きの「その後」は、前文を受けて、去来の落柿舎滞在の後の意であって、元禄七年(1694)六月二十日ごろと推定される。
木節(ぼくせつ)は、大津の医師で芭蕉の門人。篤実な人だったので、芭蕉の信頼を得ており、この年の十月、芭蕉が大坂で倒れたときも駆けつけ、芭蕉は治療の一切を木節に任せた。
句意は、「だるく物憂いので、ごろりと寝ころんで足を壁にあてて昼寝をしていると、ひいやりとした感触があって、残暑厳しい中にあっても、さすがにもう初秋を感じさせることである」というのである。
支考の『笈日記』によれば、芭蕉が支考に、この句をどう理解するかと尋ねたので、支考が「残暑の句だと思います」と答え、さらに「かならず蚊帳の釣手など手にからまきながら、思ふべき事をおもひ居ける人ならん」と言ったところ、芭蕉は、この句の謎は支考に解かれた、といって笑ったそうである。
「思ふべき事」というのは、このときの芭蕉の身辺の事情から考えて、江戸にいた寿貞の死のことと推察される。
この句の季語は「ひやひや」で、「冷ややか」と同じく初秋の季語である。
ちなみに、このころはまだ「昼寝」は季語でなく、「昼寝」が季語になったのは江戸末期である。
「ひやひや」は、秋になってようやく冷気を覚えることをいうが、この句の場合は、支考が「残暑」だと言い、また門人の路通も「残暑の心を」と言っていて、残暑のけだるい気分の中で、わずかに壁に足をつけて冷気を覚えるというのであり、全体としては残暑の気分の句のようである。
だから、「昼寝かな」とはあるが、ぐっすり眠り込んでいる昼寝ではなく、横になって鬱々と物思いに沈みながら、眼を閉じているさまであろう。
ゴーガンの紅き腰巻 夏惜しむ 季 己