立秋から十六日めを、「処暑」という。つまり今日、八月二十三日がその処暑。
処暑は、烈しい残暑にストップのかかる頃で、よい時候語であるが、二音、重ね音で歯切れがよくないせいか、句にする人は少ない。
こういう季語も常識として、マスターしようとするが……。やはり使い慣れることが必要であろう。
八月も下旬となると、めっきり日脚が短くなってくる。
そういえば、蜩(ひぐらし)の声を、今年はまだ一度も聞いていない。
例年ならば、七月の末から耳馴れていた蜩の声が、いまさら身に沁みて秋を知るのが、ちょうど今頃である。
この「ひぐらし」という蝉の名は、暑い日盛りにはひそまっていて、日暮れを待って盛んに鳴き立てるところから、与えられたものだという。
以前、ユースホステルで同室になった、日本に来たての外人さんから、「アレハ、ナントイウ 鳥デスカ?」と尋ねられたことがある。
早朝や黄昏に、甲高い声で涼やかに鳴く蜩。梅雨明け頃から鳴きはじめるというが、あの声はやはり爽秋のものであろう。
小さな体にちかちかと金緑の筋があり、透きとおった翅も長くてスマートな、かわいい蝉である。
蜩の哀調をおびた声は涼しげで、どこか寂しげに聞こえる。カナカナカナ……と美しい声で鳴くため、「かなかな」ともいわれている。
蝉の鳴き声の中で、蜩がもっとも美しいといったのは、小泉八雲とのこと。
蜩や几(つくえ)を圧す椎の影 正岡子規
八月も末、夕日の翳りがくっきりと目立つ頃になると、蜩の声もひとしお身に沁みて聞く人の心をひきつけるようである。
上記の子規の句も、その時間帯をとらえたものであろう。「几を圧す」が非凡である。
ひらがなのかなかな啼かせ母郷かな 辺見じゅん
これは、そのセンチメンタルなノスタルジーをうたったものだが、「ひらがなのかなかな」と「母郷」の「母」とが響きあって素晴らしい。また、K音の多用が涼しさを増幅している。
ひぐらしのこゑのつまづく午後三時 飯田蛇笏
まず、「午後三時」のみ漢字で、あとは“ひらがな”という表記に感心する。また「つまづく」が上手い。
ただ、この句のせいか知らぬが、句会などで「こゑのつまづく」はもちろん、「○○のつまづく」が多いのは、考え物である。
かなかなや少年の日は神のごとし 角川源義
「かなかなや」が効いている。これを「蜩や」としたら、低級の句に成り下がってしまう。ことばの吟味の大切さを教えられた。
どこか、わが身の衰えを「かなかな」の声に誘われた句のように思えるのは、己の年齢のせいであろうか。
風の香の身につき処暑の茶棚かな 季 己
処暑は、烈しい残暑にストップのかかる頃で、よい時候語であるが、二音、重ね音で歯切れがよくないせいか、句にする人は少ない。
こういう季語も常識として、マスターしようとするが……。やはり使い慣れることが必要であろう。
八月も下旬となると、めっきり日脚が短くなってくる。
そういえば、蜩(ひぐらし)の声を、今年はまだ一度も聞いていない。
例年ならば、七月の末から耳馴れていた蜩の声が、いまさら身に沁みて秋を知るのが、ちょうど今頃である。
この「ひぐらし」という蝉の名は、暑い日盛りにはひそまっていて、日暮れを待って盛んに鳴き立てるところから、与えられたものだという。
以前、ユースホステルで同室になった、日本に来たての外人さんから、「アレハ、ナントイウ 鳥デスカ?」と尋ねられたことがある。
早朝や黄昏に、甲高い声で涼やかに鳴く蜩。梅雨明け頃から鳴きはじめるというが、あの声はやはり爽秋のものであろう。
小さな体にちかちかと金緑の筋があり、透きとおった翅も長くてスマートな、かわいい蝉である。
蜩の哀調をおびた声は涼しげで、どこか寂しげに聞こえる。カナカナカナ……と美しい声で鳴くため、「かなかな」ともいわれている。
蝉の鳴き声の中で、蜩がもっとも美しいといったのは、小泉八雲とのこと。
蜩や几(つくえ)を圧す椎の影 正岡子規
八月も末、夕日の翳りがくっきりと目立つ頃になると、蜩の声もひとしお身に沁みて聞く人の心をひきつけるようである。
上記の子規の句も、その時間帯をとらえたものであろう。「几を圧す」が非凡である。
ひらがなのかなかな啼かせ母郷かな 辺見じゅん
これは、そのセンチメンタルなノスタルジーをうたったものだが、「ひらがなのかなかな」と「母郷」の「母」とが響きあって素晴らしい。また、K音の多用が涼しさを増幅している。
ひぐらしのこゑのつまづく午後三時 飯田蛇笏
まず、「午後三時」のみ漢字で、あとは“ひらがな”という表記に感心する。また「つまづく」が上手い。
ただ、この句のせいか知らぬが、句会などで「こゑのつまづく」はもちろん、「○○のつまづく」が多いのは、考え物である。
かなかなや少年の日は神のごとし 角川源義
「かなかなや」が効いている。これを「蜩や」としたら、低級の句に成り下がってしまう。ことばの吟味の大切さを教えられた。
どこか、わが身の衰えを「かなかな」の声に誘われた句のように思えるのは、己の年齢のせいであろうか。
風の香の身につき処暑の茶棚かな 季 己