壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

行水

2008年08月17日 21時54分32秒 | Weblog
 銭湯に入ったことがお有りだろうか。
 今の時代、銭湯自体、知らない人が多いのではないか。平たく言うと「ふろや」つまり、料金を取って入浴させる公衆浴場のことである。
 ここ下町も、銭湯がめっきり減った。子どもの頃、5軒あった銭湯が、昨年、今年と続けて2軒廃業して、今は2軒のみが、細々と営業しているのみである。
 下町は古い民家が多く、「ふろ」のない家がまだかなりある。今ある2軒が廃業したら、どうなるのであろうか。他人事ながら心配である。
 昔ならいざ知らず、行水をするわけにも……。

 日中の汗を流さずに夕餉の膳に向かう気にならず、そこで、縁先に盥(たらい)を据えて、水を湛え、汗を流す程度の手軽な湯浴みは、夏にはなくて叶わぬ習慣であった。
 真夏の頃は、毎日、内風呂を立てるのは無駄、かといって銭湯へ通うのも、というときにするのが昔の行水である。したがって、行水は夏の季語となっている。

        行水の捨てどころなき虫の声     鬼 貫
 「行水」は先述のように、盥に湯を入れて手軽に湯浴みすることをいうが、ここでは使った後の湯をさす。
 「行水に使った湯を捨てようとしたが、庭にはあちらこちらで虫が鳴いている。せっかくの美しい鳴き声を止めるのが惜しさに、湯の捨て場に困っている」
 の意。季語は「行水」ではなく、「虫の声」で秋ということになる。

 この句は、誰もが経験する日常生活的な風流心を扱っただけにわかりやすく、万人の共感を呼んで、後の川柳にも「鬼貫は夜中盥を持ち歩き」と揶揄されるほどであった。
 しかし、作品としては、人口に膾炙している千代女の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」ほどではないが、作意が感じられて一級の句とは言いがたい。
 行水と虫の声を取り合わせた句としては、来山(らいざん)の「行水も日まぜになりぬ虫の声」があるが、この句のほうがずっと詩情は深い。「日まぜ」は、「一日おき」の意。
 この句も、季語は「虫の声」で秋、と思うが、ある有名歳時記には、夏の巻の「行水」の例句として載っている。
 だが、山本健吉編『最新俳句歳時記』(文春文庫)には、鬼貫・来山の両句とも、「虫の声」の例句として載っている。

 季語であるか否かの判断は、“句の中心”が何であるかを考えればよい。つまり、句の主題がいずれにあるかを判断すればよいと思う。よくよく読めば、どちらかが主で、どちらかが従であることがわかる。
 鬼貫の句は、「行水の捨てどころなき」と「虫の声」に、来山の句は、「行水も日まぜになりぬ」と「虫の声」にわけられる。
 このようにすれば、「行水」と「虫の声」のどちらが主題であるか、自ずからわかると思う。
 数学的に言えば、両句とも、“5・7対5”、つまり、“12音 対 5音”でバランスがとれている、ということだ。したがって、5音の方の比重が高い、すなわち、こちらが主で季語となる。
 もっと簡単に言えば、“句の中心”は、切字がある場合は、切字の部分、ない場合は、下五にあることが非常に多い、ということだ。

 鬼貫は『独言』の中で、
    「作意をいひ立てたる句ハ、心なき人の耳にもおもしろしとや
     おぼえ侍らん。又、おもしろきハ句のやまひなりとぞ」
 と、作為を排す立場をとったのであるが、彼の場合は、その主張が、一句の句作りのうえで必ずしも具現化されぬ憾みがあった。まるでどこかの誰かのように。
 
 なお、中七を「捨てどころなし」の形で載せる伝本がある。
 「なき」と連体形で「虫の声」に続けるよりは、「なし」と切ったほうがよいと思うが如何。


      ひとしきり注連の青さを盆の風     季 己