壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

醍醐寺

2008年08月25日 21時58分19秒 | Weblog
 24日午前、京都市伏見区醍醐の世界遺産、醍醐寺の観音堂が全焼し、本尊の観音座像および多数の仏像も焼失した。
 
 ――山科盆地の南を押さえるようにして、醍醐の山上、山下にかけて、醍醐寺が広大な寺域を擁して建っている。
 奈良街道に面して、松並木と堀と築地の長々とつづく表構えが、真言宗醍醐派総本山の風格を見せる。
 総門内の両側には三宝院などの築地がのび、その先に深い上醍醐の山を負うて丹塗りの仁王門が現れる。明るく澄み切った眺めだ。

 醍醐寺の発足は上醍醐からはじまる。
 開山の理源大師聖宝(しょうぼう)は気宇雄大な人で、全国の名山霊地を遍歴し、貞観十八年(876)、ここ宇治郡笠取山の霊地に醍醐寺を開創した。
 これが、今回焼失した観音堂などを含む上醍醐で、その後、延長四年(926)に下醍醐の伽藍が開かれ、三宝院をはじめ多くの塔頭を擁し、古今を通じて、重要な真言の寺であった。
 多くの建物は、応仁の乱の兵火に焼失したが、近世、豊臣氏の援助によって再興した。

 上醍醐は、下の伽藍と相対して、醍醐寺の重要な伽藍を構成する。
 伝法院の奥からおよそ2kmの山道は、ときに急坂があって楽ではない。ようやく登りつめると、山上のここかしこの地勢を利用して、諸堂が配置されている。
 本堂の観音堂は、西国観音霊場第十一番札所であるが、隣接する休憩所ともども焼失してしまった。焼けた本堂は、昭和43年に再建されたもので、その前の本堂は、昭和14年に山火事で焼失し、およそ30年、本堂のない時期が続いた。
 昭和43年の再建のときには、本尊のお姿を模した百萬体佛が、一般信徒などに頒布されたと記憶している。そのうちの一体が、拙宅の仏壇に安置され、変人が毎朝、真言を唱えている。
 今後、本堂が再建されるかどうかわからぬが、西国観音霊場巡りには差し支えない。納経・ご朱印などは、下の三宝院でこれまでも行なってきたので、今後も変更はなかろう。

 古建築には、薬師堂(国宝・藤原時代)、清滝宮拝殿(国宝・室町時代)がある。如意輪堂(重文・桃山時代)は、山上の懸崖造りの奇構に眼を見張らせ、、開山堂(重文・桃山時代)とともに豊臣氏再興の建築である。
 幸い、これらの建物は、類焼を免れ無事であった。

 また、八月二十四日は地蔵盆。地蔵菩薩の縁日である。各地のお堂に香華が供えられる。
 お地蔵さんは、“六道”能化の方なので、天人以下、あらゆる悩みを持つ衆生を救われるが、ほかの仏が敬遠される餓鬼・地獄の亡者みまで救いの手をさしのべられる。特に、子どもを愛されて、賽の河原の水子にもなつかれている。

 あの哀調に満ちた和讃や、「オンカーカーカビサンマエイソワカ」の異様ともいえる真言のリズムは、いまもガキいや童子のころを懐かしむ私たちの胸をえぐる。
 ふだん頭を下げる人とてない、道端の欠け地蔵の前にも、昨晩は赤い提灯が灯ったことだろう。


      忍従の般若波羅密 秋燈下     季 己