霧の海の底なる月はくらげ哉 立 圃
この句の季語から、まず考えてみたい。
「霧」と「月」は秋の季語で、「くらげ」は夏の季語である。
一見、季語が三つのように思えるが、「くらげ」は喩えで、「くらげ」のようだということで、これは季語ではない。したがって、この句の季語は「霧」と「月」で秋ということになる。
「霧の海」は、霧が一面にたちこめているさまを海に見立てたものである。
作者の師である貞徳の著、『御傘(ごさん)』にもこの語は採用され、貞門の撰集には多くの句例を見ることができる。
この霧の海の縁によって、月を海中の海月(くらげ)と見立てたのである。
いまから千七百年ほど前に書かれた『和名抄』に、
「海月 一名水母、久良介(クラゲ)、貌(かたち)月ニ似テ、海中
ニ在リ、故ニ以テ之ノ名トス」
とあり、月と海月は連想でつながっている。
さらに、「海月」は「暗げ」を言い掛けるが、この方法は、しばしば和歌では用いられていて、
弁乳母
山のはを 出づるのみこそ さやけけれ
海なる月の くらげなるかな (『続千載集』)
藤原親定母
深くすむ 千ひろの底も 見るべきに
くらげに見ゆる 海の月哉 (『後葉集』)
などの例が見られる。
とくに、後者の歌の七七と、立圃のこの句とは共通の発想をしており、注目に値しよう。
一句は、一面の霧の中に浮かぶ月は、海の底に暗くぼんやり見える海月のようで、かすんでおぼろげに見える、ということであろう。
天上の月を海底にもっていったところや、月を海月に見立てて、そのうえに海月を暗げに掛ける点など、発想の契機はすべて和歌の技法の世界のものであるが、一句としてまとまったものとなっており、霧の海の月のイメージをよく伝えて、幻想的な美しささえ読者に与えている。秀作というべきであろう。
落雷やギリシャに写楽肉筆画 季 己
この句の季語から、まず考えてみたい。
「霧」と「月」は秋の季語で、「くらげ」は夏の季語である。
一見、季語が三つのように思えるが、「くらげ」は喩えで、「くらげ」のようだということで、これは季語ではない。したがって、この句の季語は「霧」と「月」で秋ということになる。
「霧の海」は、霧が一面にたちこめているさまを海に見立てたものである。
作者の師である貞徳の著、『御傘(ごさん)』にもこの語は採用され、貞門の撰集には多くの句例を見ることができる。
この霧の海の縁によって、月を海中の海月(くらげ)と見立てたのである。
いまから千七百年ほど前に書かれた『和名抄』に、
「海月 一名水母、久良介(クラゲ)、貌(かたち)月ニ似テ、海中
ニ在リ、故ニ以テ之ノ名トス」
とあり、月と海月は連想でつながっている。
さらに、「海月」は「暗げ」を言い掛けるが、この方法は、しばしば和歌では用いられていて、
弁乳母
山のはを 出づるのみこそ さやけけれ
海なる月の くらげなるかな (『続千載集』)
藤原親定母
深くすむ 千ひろの底も 見るべきに
くらげに見ゆる 海の月哉 (『後葉集』)
などの例が見られる。
とくに、後者の歌の七七と、立圃のこの句とは共通の発想をしており、注目に値しよう。
一句は、一面の霧の中に浮かぶ月は、海の底に暗くぼんやり見える海月のようで、かすんでおぼろげに見える、ということであろう。
天上の月を海底にもっていったところや、月を海月に見立てて、そのうえに海月を暗げに掛ける点など、発想の契機はすべて和歌の技法の世界のものであるが、一句としてまとまったものとなっており、霧の海の月のイメージをよく伝えて、幻想的な美しささえ読者に与えている。秀作というべきであろう。
落雷やギリシャに写楽肉筆画 季 己