壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

女郎花

2008年08月24日 21時43分06秒 | Weblog
                   僧正遍昭        
         名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花
           我れ落ちにきと 人に語るな    (『古今和歌集』)

 女郎花は、秋の七草の一つである。一メートルほどの細い茎をもち、羽状に深く裂けた葉を対生し、秋になると分枝して、粟のようなこまかな黄金色の花を咲かせる。山野に自生し、風に揺れるさまはいかにも頼りなげな風情である。
 一輪挿しよりも、「やはり野に置け」女郎花であろう。

 女郎花は昔から、和歌の世界では、萩に劣らず持てはやされた題材である。
 ただし、女郎花というその名の程に色めいた花ではない。
 上記の遍昭の歌も、「女郎花」という、名のみ事々しい花の実体を突いた皮肉な歌ということも出来るが、わかったようで、わからない歌である。
   「をみなへし」の「をみな」という名に愛でて手折っただけなのだ。
   決して我が物にしたわけではない。
   だから、あの坊主が女犯の罪を犯したなどと人に言ってくれるな。
 というほどの意で、ちょっとふざけた、軽妙洒脱な詠みぶりだと思う。

        見るに我(が)も折れるばかりぞ女郎花     芭 蕉
   女郎花のたおやかな風情には、美しい女の趣がある。
   見ていると、ほとほと感心させられるほどで、
   つい、手折ったまでのことだ。

 「女郎花」という花の名に、遊女を匂わせて発想したものであろう。
 『古今集』の僧正遍昭の「名にめでて……」を踏まえたものであることはいうまでもない。
 貞門時代の発想は、後年のように、対象をしっかりつかむというのではなくて、古典の裁ち入れや、掛詞や比喩の巧みな使い方で、笑いを呼びおこすところが中心になっている。
 「我を折る」は、当時、「感心する、恐れ入る」あるいは「閉口する」などの意に用いられていた。

        僧正よ鞍がかへつて女郎花     其 角
 この句も、遍昭の歌の裏の意味を読み取っての遊びであろう。
 「落ちにき」を、「馬から落ちた」という解釈が、遍昭の時代からあったらしい。

 また同じく芭蕉の弟子の、各務支考(かがみしこう)の、
        野にも寝よ宿かるかやに女郎花     支 考
 という句は、『古今集』巻四にある、小野美材(おののよしき)の、
        女郎花 多かる野辺に 宿りせば
          あやなくあだの 名をや立ちなむ
 を敷衍して、刈萱まで取り込んだものである。

 「女郎花」という名のゆえに、実体以上に和歌や俳句の世界で持てはやされたのであろう。
        女郎花そも茎ながら花ながら     蕪 村
 この蕪村の句は、さすが画人だけあって、実体以上に女郎花を持ち上げることなく、そのなよなよとして力無げな風情を、何の虚飾もなく取り上げた、数少ない例である。


      きぬぎぬの風のつかひや女郎花     季 己