平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

キリストと共に生きる

2018-01-05 13:30:15 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年1月1日 元旦礼拝 杉野省治牧師
「キリストと共に生きる」 ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節

 パウロは19節で「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と書いているが、このことが言えたパウロは、かつて律法に徹し、律法に一生懸命生きたのである。しかし彼は、律法によって生きていけばいくほど、絶望するよりほかなかった。神の前に正しくなろうと思えば思うほど、自分が正しくない罪人であることに突き当たってしまった。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。一方では律法を愛し、神を愛しながら、他方では肉を愛しこの世を愛する思いがあり、しかも常にこの世を愛する思いが勝っていく。そういう自分をどうすることもできなかった。パウロは「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)とも書いている。要するに、一番大事な存在である自分が分からない、信じられない。そんなものはないに等しい。律法によって律法に死んだというのはそういうことである。では、誰を何を信じていけばいいのか、誰を信頼し何を信頼して生きていけばいいのか。

 聖書は、イエス・キリストのみ、と明確に言っている。パウロも16節で「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリストを信じました」と言っている。さらに、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義としていただく」とある。共に「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」という言い方をしている。この言い方は明らかに、人からキリストへの信仰という方向性を示している。確かに私たちはイエス・キリストを主と信じる信仰によって義とされる、救われるわけだが、それだけだろうか。それでは何でも真剣に本心から信じれば救われるのだろうか。それではイワシの頭も信心から、ということになってしまう。

 実は、ギリシア語の「信仰」と訳されている「ピスティス」という言葉は、信頼、信頼性という意味を持っている。だから、ある神学者は16節を「人はイエス・キリストの信頼性を通して以外、律法の行いゆえに義とされないと」と訳した。この「信頼性」という言葉は「信頼関係」という言葉があるように、誰かと関係性を構築し維持するための重要な要素である。ここでは、キリストご自身が私たちに示す信頼性が、義認の前提として述べられているというわけである。わかりやすく言うと、「キリストが信頼性を有するから、私は信頼する」といった双方向性を持ったものとして理解することができる。

 キリストの信頼性とは、キリストご自身が自分の命さえも投げ出して私たちのことを思ってくれている、愛して下さっている、そのことである。これ以上の信頼性はないわけで、それゆえ、私はキリストを信頼する、信仰するというわけである。信頼に足るお方であるということ。その要が十字架と復活の出来事なのは言うまでもない。それがあってこそのイエス・キリストへの信頼、信仰なのである。

 さて、その信仰だが、パウロは19-20節で次のように言っている。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。

 この19節―20節について、ルターは興味深い解釈をしている。「パウロは死んでしまったのである。生きているのはキリスト者である。外見において、仕事において、食物において、着る物について不信仰者と何の違いもない。キリスト者もこの世の被造物を用いる。違うのは信仰を持って生きているということである」(「ガラテヤ大講解」)。これは何と素晴らしい解釈かと思う。うっかりするとパウロの言葉は、一種の神秘主義に陥る可能性を持っている。そうなると現実の生の生活感を持たない、特別な信仰者のあり方になってしまう。ルターは、神秘主義になることを慎重に避けている。ルターがパウロの言葉を通して言いたいのは、確かにパウロという人間は罪人としてキリストと共に死んでいるが、しかしキリストを信頼する者として、この現実を生きている。見てくれも、毎日の生活も世間の人とあまり変わりはない、ただキリストへの信頼、信仰を持って生きている。それが世間の人と違うのだということなのである。

 私たちはこの世にあって、この世に関りながら生きている。その意味において何ら他の人々と変わることはない。しかし、この世に対して与えられた神からの恵み、宝である信仰を持っている。それをパウロは「キリストが私の内に生きておられるのです」と言っている。イエス・キリストはインマヌエルのお方、神は我々と共におられるお方。私たちはキリストと共に生きるものとされている。その信仰を大事にしたいと思う。

祈りの共同体

2018-01-05 12:06:26 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2017年12月31日 主日礼拝 杉野省治牧師
「祈りの共同体」 テサロニケの信徒への手紙一 1章2-3節

 祈りは一面においてはまことに孤独なもの。祈ることによって初めて一人、神の御前に出るということを知る。しかし他方、祈りはただ一人祈る時にも他者を思い起こさざるを得ない。パウロは、祈りにおいて、離れているテサロニケの教会の人々を思い起こしている。

 パウロはその祈りの中で、テサロニケの信徒が偶像から離れ、生ける真実の神に仕えるようになった、その信仰と模範(1:7-8)に対して神に感謝している(1:2)。そのことをパウロはここで「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」という言葉で語っている。これらの言葉は、コリント人への第一の手紙13章にある、信仰と希望と愛という、いつまでも存続する霊の賜物についての言葉を思い出させる。

 しかも自分にそのような賜物が与えられていてうれしいというのではなく、イエス・キリストの神を父と呼ぶことができる教会の仲間たちに、この大いなる賜物が与えられている現実を「心に留めている」。テサロニケの教会の人々の暮らしぶりに、信仰によって彼らが働いている姿を見ていた。また、愛の労苦に耐えることができている姿を見、望みに根ざした忍耐の歩みが与えられているのを見ていた。信仰も希望も愛も、それが単なるお題目ではなくて、教会の仲間たちの生活ににじみ出てきているのを知るのである。

 祈りは、このようにまず何よりも信仰の仲間たちを思い起こす場所であった。感謝から祈りは始まるというが、その感謝の糧として、このように他者がくっきりと姿を現してくるのである。

 このことだけですでに、祈りがひとりでは成り立たないということ、教会の仲間があってこそ成り立つものであることがわかる。そして、そのように思い起こす人々のために祈るのである。しかもそれだけではない。この手紙の終わりに近いところでは、「兄弟たちよ、私たちのためにも、祈って欲しい」(5:25)と書いている。パウロは求めている。私のためにも祈って欲しい。自分も教会の仲間のために祈る。教会も自分のために祈って欲しい。パウロはよくこうした求めを書いている。教会の祈りの支えなくしては生きていかれないということをよく知っていたのである。

 ある牧師が祈りについて次のような意味のことを書いている。病気になった者は医師のところに行く。診察を受け、検査をしてもらい、薬を処方してもらい、あるいは注射をしてもらう。時には手術も受ける。そのように医学的な処置を受けるのは当然のことであろう。しかし、信仰者にとってはそれだけではない。祈ることをも必要とする。自分が祈るだけではない。祈ってもらうのである。つまり病んでいる者は、自分のために祈って欲しいと要求する権利があると言うのである。権利などと言うと、少し厚かましい言い方になるかもしれない。しかし、この牧師が言いたいことは、病んでいる者は祈りを求めていいのだ、ということである。肉体の病の時だけではない。心が病んだ時にも、苦しみにある時にも、悲しみの中にある時にも、私のために祈ってくださいと求めてよいのである。いや、そういう時だけではない。喜んでいるときにも、しあわせだと思っている時にも、信仰の兄弟たちよ、私のために祈って欲しいと言ってよいのである。苦しみや、悲しみに自分が打ち勝てるように祈って欲しい。この喜びを共に喜んで神に感謝してほしい。そう言えるのである。

 もちろん、自分のための祈りを求めるだけではない。自分のために祈ってほしいという願いは、自分も仲間のために祈り続けることとひとつである。表裏一体である。祈り合うのである。教会はそのようにして形作られる祈りの交わり、祈りの共同体なのである。その意味では、私一人でする祈りが孤独であるということはない。自分のためだけに祈るような祈りもない。初めから他者を思い起こさないわけにはいかない。そこでは、初めにまず自分のために祈り、心に余裕があったら他者のために祈るということでもない。自分のために祈ることと、他者のために祈ることと簡単に分けることは出来ないのである。自分が他者の祈りの中に包み込まれるように、自分もまた他者を包み込むような祈りに生きるのである。ここに祈る者の知るさいわいがある。教会に大勢集まっている時の祈りだけではない。私の一人の祈りが、またとりなしの祈りであることは当然である。私たちの祈りがそのようにして、日ごとに少しずつでも広がることが出来ればどんなによいことかと思う。

キリスト誕生の目的

2018-01-05 11:55:21 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2017年12月24日 キャンドル礼拝 杉野省治牧師
「キリスト誕生の目的」  マタイによる福音書1章18-25節

 クリスマスがイエス・キリストの誕生の日であり、それを記念していることは誰もが知っている。それでは、クリスマスにどんな意味があるのかということになると、誰もが理解し、納得しているわけではない。クリスマスの意味は?それはイエス・キリストが何のために生まれてきたのか、イエス・キリストの誕生の目的は何であったのかということになるだろう。クリスマスを本当の意味で理解し、祝うためには、イエス・キリストの誕生の目的を知り、しかもそれが今日の私たちにどういう関りがあるかを知ることが必要である。このことが分かると、私たち自身の人生についても、自分がなぜ生まれてきたのか、自分の人生の目的についても理解することができるだろう。

 マタイ福音書はイエス・キリストの誕生の目的をイエスにあてられた「名」を手掛かりに示している。そこには「二つの名」が記されている。一つは、ヨセフの夢に現れた天使が告げた名。21節に「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい」。もう一つは預言者を通して言われた名として「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(23節)。一方の名は天使から、他方の名は預言者からという仕方なので、この名は神のみ心とご計画とが示されていると考えていいだろう。

 「その名をイエスと名づけなさい」という天使の命令は、「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」という理由が告げられている。「イエス」の意味は「救い」あるいは「彼は救う」という意味を持っている。だから「彼は己の民を救う者となる」と言われているわけである。この名から言うとイエス・キリストの誕生の目的は、「ご自分の民を救うこと」にあるということになる。

 このことに対応して、マタイ福音書はやがて最後の晩餐のことを伝える(26:28)。そこでは、主は十字架にかかってご自分が流す「血」と最後の晩餐の「ぶどう酒」を結び合わせて、「多くの人のために流す私の契約の血」と語るのだが、マタイ福音書はその個所に他の福音書にはない、「罪の赦しを得させるように」という言葉を付け加えている。「イエス」という名が示しているキリスト誕生の目的は、主のものとされた民が罪赦されることであり、そのために十字架上に血を流すこと、そのためにキリストは誕生したというのである。

 それではもう一つの名「インマヌエル」という名はどんな目的を示しているのだろうか。この名は「神我らと共にいます」という意味である(23節)。このことを目的としてイエス・キリストは誕生したというのである。主イエスの生涯は、この「インマヌエル」の名の通り、神が我らと共におられる生涯だった。主イエスの御言葉も色々な行為も「神が我らと共にいます」ことを示していた。主イエスが病人を癒されたとき、神の恵みの力が働いた。主イエスが徴税人を招いて共に食事をされた時、神が共におられて神の国の食事の前触れが起きたのである。

 この「共にいます」という言葉は、実はこのマタイ福音書の最後にも記されている。それは十字架にかけられ復活し、そして天に高く挙げられた主イエスの言葉として書かれている。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。キリストの生涯を記したこの福音書の最初と最後に同じ言葉が書かれているということは、キリスト誕生の目的は、主がただ十字架にかかるためだけではなく、十字架にかかった方として復活し、高く挙げられ、高く挙げられた方として「いつも私たちと共におられるため」であった、と言えるだろう。高く挙げられ、神と一つにされた主イエスは「いつも」、だから「今日も」私たちと共におられる。高く挙げられた方は神と同一の方で、あらゆる時と場所との制約を超えて、普遍的に偏在されるお方。それゆえ今ここに共におられる。キリストは今、私たちに臨在しておられる。そのことによって、十字架による罪の赦しが今日の私たちにも与えられる。

 主イエスの誕生の目的が、今日、そして世の終わりまで私たちと共におられるためであったいうことは、私たちの人生の目的をはっきりさせることになるのではないだろうか。私たちは何のために生まれてきたのか。人生の目的は何か。主イエスの誕生の目的が「神我らと共にいます」ということ、そのために「罪からの救い」を与えることであれば、私たちの誕生の目的は「私たちも神と共にいるため」ではないか。そのために私たちは生まれ、そのために私たちは罪を赦されたのである。このことを信じ、感謝して受け入れたいと思う。罪赦され、神と共に生きる人生を感謝したいと思う。そのためにキリストがこの世に来られた、お生まれになった、このクリスマスの出来事を喜びを持って心からお祝いしよう。