平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

信仰は決断である

2018-01-11 16:22:01 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年1月7日 新年礼拝 杉野省治牧師
「信仰は決断である」 ヘブライ人への手紙11章1-12節

 ヘブライ書11章を語るには、1節を抜きにしては語れない。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。著者の願いは、キリストにあるすべての者たちが、この言葉に示されているような生涯を走り抜くことだった。

 信仰は一つであるから、別々の信仰があるわけではない。しかし、ヘブライ書は他の聖書記者たちと異なるアクセントをもって、他のどの箇所にもない信仰の側面を提示している。再び11章の冒頭の言葉をもって言うなら、信仰とは「この世界が神の言葉によって創造され」たことが「分かる」ことであり、「見えない事実」を確かに認めて、それを人生の選択において表わし、行動において実践することである。このヘブライ書は、神の民に与えられた使命としての信仰を強調する。信仰とは闘いであり、素晴らしい挑戦であり、そして決断であり、生涯をかけての壮大な冒険である。この独自性をしっかりふまえて、繰り返される「信仰によって」の内実を汲み取りたい。

 「信仰によって」生涯を生きた一人であるアブラハムは平和な生活を送っていた。ところが、神から突然召された。召されてハランの地から出たときには、随分たくさんの財産を持っていたことだろう。その財産で悠々自適の暮らしができたであろう。その彼が、神の言葉を聞いたのである。神の言葉は、その人だけにこそこそと語られるのでなく、天地をとどろかすように語られる。にもかかわらず、神の言葉は気をつけていないと聞くことができない。「うっかりしていた」ということもよくある。また、聞いても、それを自分に受け入れないことが多い。それは無理だとか、私にはできないなどと幾重にも弁解を用意して、聞き入れようとはしない。最も致命的なことは、私に語られたと思わず聞かないことである。

 アブラハムが神の言葉を聞いたという単純な記述は、彼が、自分自身に語られたと聞いたのである。このように、語られた言葉を自分への言葉として受け取っていく。それが、私たちに決断を求め、生活の変化を迫ってくるのである。これが神の言葉である。

 アブラハムはそのところから出て行った。「行き先も知らずに出発した」という決断、ここに信仰があった。しかし、出て行った彼には、様々な失敗が待っていた。彼は倫理上も許されぬ失敗や罪を重ねた。私たちの基準からするなら、決して手本などにできる人ではなかった。にもかかわらず、アブラハムはその中で神の約束にしがみついていったのである。

 信仰の世界では、失敗を恐れる必要はない。大事なことは、失敗なく従うことではなく、ただ神に信頼して従うことなのである。何もしない人は失敗もしないだろう。でも何もなすこともない。もちろん神に従うこともできない。アブラハムは失敗の上に恥をかき、罪を重ねても、なお神の約束に頼っていたから、彼は、信仰の父と呼ばれたのである。モーセの生涯もしかりである。

 アブラハムもモーセも、立場は違っても、神に聞き従ったということは同じである。また、神の意志に従うことは、あくまでもその人の自由意志だということである。従っても従わなくてもよい。そういう中で、従っていったというところが、この人たちの道であり、信仰だったのである。ある書物に「十字架とは、背負っても背負わなくてもよいものを背負うことである」と書いてあった。キリスト者にとっての十字架とは、逃げることができる、避けることができるのに、しかもそれを背負っていくものである。どんな小さな十字架でもよい。これを神の言葉として受け、逃げずに背負って従っていくならば、主の祝福に与る者となることができるのである。その決断こそ信仰。

マザー・テレサ 愛の言葉

2018-01-08 07:10:01 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年1月7日 マザー・テレサ 愛の言葉

 マザー・テレサが天に召されて20年になります。「あなたは、この世にのぞまれて生まれてきた大切な人」ということを彼女は実際の行動で一人ひと
りに示しました。苦しむ人、見捨てられている人のいるところなら、インド国内だけでなく、世界のどこへでも出かけ、疲れを知らずに働き続けまし
た。今も彼女の言葉は天国から繰り返し、私たちに語りかけています。「こんどは、あなたが神さまの愛の運び手になってください」と。以下、『マザ
ー・テレサ 愛の言葉』(女子パウロ会1998)より引用しました。何度も味わって読んでください。

 わたしたちのすることは/大海のたった一滴の水に/すぎないかもしれません。/でも/その一滴の水があつまって/大海となるのです。

 貧困をつくるのは神ではなく/わたしたち人間です。/わたしたちが/分かち合わないからです。

 まず知り合うこと/知り合えば/お互いに愛しあうようになるでしょう。/互いに愛しあえば/支えあうようになるでしょう。/もしほんとうに愛したいと願うなら/ゆるすことを知らなければなりません。

 無理なことをどうこう思い悩むのは/むだなことです。できないことは/神さまがおのぞみでないのだと/思いなさい。

 たいせつなのは/どれだけたくさんのことをしたかではなく/どれだけ心をこめたかです。

 わたしたちは忙しすぎます。/ほほえみを交わすひまさえありません。/ほほえみ/ふれあいを/忘れた人がいます。/これはとても大きな貧困で
す。

 ごうまんで/ぶっきらぼうで/利己的になるのは/いともたやすいことです。/でもわたしたちは/もっとすばらしいことのために/つくられている
のです。

 どれも励ましのこもった愛の言葉ですが、きっぱりとした言い方の中にマザー・テレサの意志の強さ、信仰の強さを感じます。

キリストと共に生きる

2018-01-05 13:30:15 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年1月1日 元旦礼拝 杉野省治牧師
「キリストと共に生きる」 ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節

 パウロは19節で「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と書いているが、このことが言えたパウロは、かつて律法に徹し、律法に一生懸命生きたのである。しかし彼は、律法によって生きていけばいくほど、絶望するよりほかなかった。神の前に正しくなろうと思えば思うほど、自分が正しくない罪人であることに突き当たってしまった。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。一方では律法を愛し、神を愛しながら、他方では肉を愛しこの世を愛する思いがあり、しかも常にこの世を愛する思いが勝っていく。そういう自分をどうすることもできなかった。パウロは「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)とも書いている。要するに、一番大事な存在である自分が分からない、信じられない。そんなものはないに等しい。律法によって律法に死んだというのはそういうことである。では、誰を何を信じていけばいいのか、誰を信頼し何を信頼して生きていけばいいのか。

 聖書は、イエス・キリストのみ、と明確に言っている。パウロも16節で「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリストを信じました」と言っている。さらに、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義としていただく」とある。共に「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」という言い方をしている。この言い方は明らかに、人からキリストへの信仰という方向性を示している。確かに私たちはイエス・キリストを主と信じる信仰によって義とされる、救われるわけだが、それだけだろうか。それでは何でも真剣に本心から信じれば救われるのだろうか。それではイワシの頭も信心から、ということになってしまう。

 実は、ギリシア語の「信仰」と訳されている「ピスティス」という言葉は、信頼、信頼性という意味を持っている。だから、ある神学者は16節を「人はイエス・キリストの信頼性を通して以外、律法の行いゆえに義とされないと」と訳した。この「信頼性」という言葉は「信頼関係」という言葉があるように、誰かと関係性を構築し維持するための重要な要素である。ここでは、キリストご自身が私たちに示す信頼性が、義認の前提として述べられているというわけである。わかりやすく言うと、「キリストが信頼性を有するから、私は信頼する」といった双方向性を持ったものとして理解することができる。

 キリストの信頼性とは、キリストご自身が自分の命さえも投げ出して私たちのことを思ってくれている、愛して下さっている、そのことである。これ以上の信頼性はないわけで、それゆえ、私はキリストを信頼する、信仰するというわけである。信頼に足るお方であるということ。その要が十字架と復活の出来事なのは言うまでもない。それがあってこそのイエス・キリストへの信頼、信仰なのである。

 さて、その信仰だが、パウロは19-20節で次のように言っている。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。

 この19節―20節について、ルターは興味深い解釈をしている。「パウロは死んでしまったのである。生きているのはキリスト者である。外見において、仕事において、食物において、着る物について不信仰者と何の違いもない。キリスト者もこの世の被造物を用いる。違うのは信仰を持って生きているということである」(「ガラテヤ大講解」)。これは何と素晴らしい解釈かと思う。うっかりするとパウロの言葉は、一種の神秘主義に陥る可能性を持っている。そうなると現実の生の生活感を持たない、特別な信仰者のあり方になってしまう。ルターは、神秘主義になることを慎重に避けている。ルターがパウロの言葉を通して言いたいのは、確かにパウロという人間は罪人としてキリストと共に死んでいるが、しかしキリストを信頼する者として、この現実を生きている。見てくれも、毎日の生活も世間の人とあまり変わりはない、ただキリストへの信頼、信仰を持って生きている。それが世間の人と違うのだということなのである。

 私たちはこの世にあって、この世に関りながら生きている。その意味において何ら他の人々と変わることはない。しかし、この世に対して与えられた神からの恵み、宝である信仰を持っている。それをパウロは「キリストが私の内に生きておられるのです」と言っている。イエス・キリストはインマヌエルのお方、神は我々と共におられるお方。私たちはキリストと共に生きるものとされている。その信仰を大事にしたいと思う。

祈りの共同体

2018-01-05 12:06:26 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2017年12月31日 主日礼拝 杉野省治牧師
「祈りの共同体」 テサロニケの信徒への手紙一 1章2-3節

 祈りは一面においてはまことに孤独なもの。祈ることによって初めて一人、神の御前に出るということを知る。しかし他方、祈りはただ一人祈る時にも他者を思い起こさざるを得ない。パウロは、祈りにおいて、離れているテサロニケの教会の人々を思い起こしている。

 パウロはその祈りの中で、テサロニケの信徒が偶像から離れ、生ける真実の神に仕えるようになった、その信仰と模範(1:7-8)に対して神に感謝している(1:2)。そのことをパウロはここで「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」という言葉で語っている。これらの言葉は、コリント人への第一の手紙13章にある、信仰と希望と愛という、いつまでも存続する霊の賜物についての言葉を思い出させる。

 しかも自分にそのような賜物が与えられていてうれしいというのではなく、イエス・キリストの神を父と呼ぶことができる教会の仲間たちに、この大いなる賜物が与えられている現実を「心に留めている」。テサロニケの教会の人々の暮らしぶりに、信仰によって彼らが働いている姿を見ていた。また、愛の労苦に耐えることができている姿を見、望みに根ざした忍耐の歩みが与えられているのを見ていた。信仰も希望も愛も、それが単なるお題目ではなくて、教会の仲間たちの生活ににじみ出てきているのを知るのである。

 祈りは、このようにまず何よりも信仰の仲間たちを思い起こす場所であった。感謝から祈りは始まるというが、その感謝の糧として、このように他者がくっきりと姿を現してくるのである。

 このことだけですでに、祈りがひとりでは成り立たないということ、教会の仲間があってこそ成り立つものであることがわかる。そして、そのように思い起こす人々のために祈るのである。しかもそれだけではない。この手紙の終わりに近いところでは、「兄弟たちよ、私たちのためにも、祈って欲しい」(5:25)と書いている。パウロは求めている。私のためにも祈って欲しい。自分も教会の仲間のために祈る。教会も自分のために祈って欲しい。パウロはよくこうした求めを書いている。教会の祈りの支えなくしては生きていかれないということをよく知っていたのである。

 ある牧師が祈りについて次のような意味のことを書いている。病気になった者は医師のところに行く。診察を受け、検査をしてもらい、薬を処方してもらい、あるいは注射をしてもらう。時には手術も受ける。そのように医学的な処置を受けるのは当然のことであろう。しかし、信仰者にとってはそれだけではない。祈ることをも必要とする。自分が祈るだけではない。祈ってもらうのである。つまり病んでいる者は、自分のために祈って欲しいと要求する権利があると言うのである。権利などと言うと、少し厚かましい言い方になるかもしれない。しかし、この牧師が言いたいことは、病んでいる者は祈りを求めていいのだ、ということである。肉体の病の時だけではない。心が病んだ時にも、苦しみにある時にも、悲しみの中にある時にも、私のために祈ってくださいと求めてよいのである。いや、そういう時だけではない。喜んでいるときにも、しあわせだと思っている時にも、信仰の兄弟たちよ、私のために祈って欲しいと言ってよいのである。苦しみや、悲しみに自分が打ち勝てるように祈って欲しい。この喜びを共に喜んで神に感謝してほしい。そう言えるのである。

 もちろん、自分のための祈りを求めるだけではない。自分のために祈ってほしいという願いは、自分も仲間のために祈り続けることとひとつである。表裏一体である。祈り合うのである。教会はそのようにして形作られる祈りの交わり、祈りの共同体なのである。その意味では、私一人でする祈りが孤独であるということはない。自分のためだけに祈るような祈りもない。初めから他者を思い起こさないわけにはいかない。そこでは、初めにまず自分のために祈り、心に余裕があったら他者のために祈るということでもない。自分のために祈ることと、他者のために祈ることと簡単に分けることは出来ないのである。自分が他者の祈りの中に包み込まれるように、自分もまた他者を包み込むような祈りに生きるのである。ここに祈る者の知るさいわいがある。教会に大勢集まっている時の祈りだけではない。私の一人の祈りが、またとりなしの祈りであることは当然である。私たちの祈りがそのようにして、日ごとに少しずつでも広がることが出来ればどんなによいことかと思う。

キリスト誕生の目的

2018-01-05 11:55:21 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2017年12月24日 キャンドル礼拝 杉野省治牧師
「キリスト誕生の目的」  マタイによる福音書1章18-25節

 クリスマスがイエス・キリストの誕生の日であり、それを記念していることは誰もが知っている。それでは、クリスマスにどんな意味があるのかということになると、誰もが理解し、納得しているわけではない。クリスマスの意味は?それはイエス・キリストが何のために生まれてきたのか、イエス・キリストの誕生の目的は何であったのかということになるだろう。クリスマスを本当の意味で理解し、祝うためには、イエス・キリストの誕生の目的を知り、しかもそれが今日の私たちにどういう関りがあるかを知ることが必要である。このことが分かると、私たち自身の人生についても、自分がなぜ生まれてきたのか、自分の人生の目的についても理解することができるだろう。

 マタイ福音書はイエス・キリストの誕生の目的をイエスにあてられた「名」を手掛かりに示している。そこには「二つの名」が記されている。一つは、ヨセフの夢に現れた天使が告げた名。21節に「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい」。もう一つは預言者を通して言われた名として「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(23節)。一方の名は天使から、他方の名は預言者からという仕方なので、この名は神のみ心とご計画とが示されていると考えていいだろう。

 「その名をイエスと名づけなさい」という天使の命令は、「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」という理由が告げられている。「イエス」の意味は「救い」あるいは「彼は救う」という意味を持っている。だから「彼は己の民を救う者となる」と言われているわけである。この名から言うとイエス・キリストの誕生の目的は、「ご自分の民を救うこと」にあるということになる。

 このことに対応して、マタイ福音書はやがて最後の晩餐のことを伝える(26:28)。そこでは、主は十字架にかかってご自分が流す「血」と最後の晩餐の「ぶどう酒」を結び合わせて、「多くの人のために流す私の契約の血」と語るのだが、マタイ福音書はその個所に他の福音書にはない、「罪の赦しを得させるように」という言葉を付け加えている。「イエス」という名が示しているキリスト誕生の目的は、主のものとされた民が罪赦されることであり、そのために十字架上に血を流すこと、そのためにキリストは誕生したというのである。

 それではもう一つの名「インマヌエル」という名はどんな目的を示しているのだろうか。この名は「神我らと共にいます」という意味である(23節)。このことを目的としてイエス・キリストは誕生したというのである。主イエスの生涯は、この「インマヌエル」の名の通り、神が我らと共におられる生涯だった。主イエスの御言葉も色々な行為も「神が我らと共にいます」ことを示していた。主イエスが病人を癒されたとき、神の恵みの力が働いた。主イエスが徴税人を招いて共に食事をされた時、神が共におられて神の国の食事の前触れが起きたのである。

 この「共にいます」という言葉は、実はこのマタイ福音書の最後にも記されている。それは十字架にかけられ復活し、そして天に高く挙げられた主イエスの言葉として書かれている。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。キリストの生涯を記したこの福音書の最初と最後に同じ言葉が書かれているということは、キリスト誕生の目的は、主がただ十字架にかかるためだけではなく、十字架にかかった方として復活し、高く挙げられ、高く挙げられた方として「いつも私たちと共におられるため」であった、と言えるだろう。高く挙げられ、神と一つにされた主イエスは「いつも」、だから「今日も」私たちと共におられる。高く挙げられた方は神と同一の方で、あらゆる時と場所との制約を超えて、普遍的に偏在されるお方。それゆえ今ここに共におられる。キリストは今、私たちに臨在しておられる。そのことによって、十字架による罪の赦しが今日の私たちにも与えられる。

 主イエスの誕生の目的が、今日、そして世の終わりまで私たちと共におられるためであったいうことは、私たちの人生の目的をはっきりさせることになるのではないだろうか。私たちは何のために生まれてきたのか。人生の目的は何か。主イエスの誕生の目的が「神我らと共にいます」ということ、そのために「罪からの救い」を与えることであれば、私たちの誕生の目的は「私たちも神と共にいるため」ではないか。そのために私たちは生まれ、そのために私たちは罪を赦されたのである。このことを信じ、感謝して受け入れたいと思う。罪赦され、神と共に生きる人生を感謝したいと思う。そのためにキリストがこの世に来られた、お生まれになった、このクリスマスの出来事を喜びを持って心からお祝いしよう。

献げるクリスマス

2018-01-04 16:19:13 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2017年12月24日 クリスマス礼拝 杉野省治牧師
「献げるクリスマス」  マタイによる福音書2章1-12節

 救い主の誕生に際して、対照的な二人の人物が描かれている。一人は三人の占星術の学者たち、もう一人は当時のユダヤの王ヘロデである。占星術の学者たちは東の国、東メソポタミアからやって来た。そのメソポタミアの世界では、星を観察するということが盛んに行われて、星の動きによって地上に起こるすべてのことを占っていた。今でいう天文学者である。

 その三人の占星術の学者たちが一つの星を見上げて新しい王の誕生を信じ、旅立った。彼らが新しい王を捜し求めてエルサレムのヘロデ王の住む宮殿に来たのは、至極当然のことであろう。新しい王は王の宮殿に生まれる、そう考えたからである。彼らはヘロデ王に尋ねた。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」。新しい王の誕生というニュースは、ヘロデ王にとっては驚きであり、警戒すべきものだった。なぜなら、ローマの支配に反乱を企てる人物がたびたび出現していて、そういう人物を待望し担ぎ上げる雰囲気が、当時のユダヤの民衆の中に蔓延していたからである。

 自分の地位が脅かされる。だから不安を感じた。彼は祭司長や律法学者たちを集めて、メシア(救い主)はどこに生まれるのか、「問いただした」。「問いただした」という言葉にヘロデの不安がにじみ出ている。なんとしてでも捜し出そう、そういう思いである。

 その場所はユダヤのベツレヘムだと聞くと、ヘロデ王は学者に言う。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」(8節)。「行って拝もう」というのは口実で、なんとしてでも見つけ出して、抹殺しようという思いである。

 もしそんな王が生まれたら、それを担ぎ出して民衆が騒ぎ始めたら、自分の地位が脅かされる。生き残るために何としても排除しなければならない。自分の持てるものを守ろうとする者の不安である。権力や財産や地位を持つ人間に不安はないか。そんなことはない。権力を持ち、お金を持ち、地位を得ている人間ほど多くの不安を抱えて生きている。だから怯え弾圧する。

 一方、三人の占星術の学者はメシア(救い主)を見出して、誕生した幼子イエスに出会った時、何をしたか。意外なことだった。彼らは持ってきた黄金、乳香、没薬を捧げた。「宝の箱を開けて」と記されている。彼らの宝物である。それを捧げて喜んで帰って行いったのである。

 一方にお金や地位、権力を握りしめている人間がいる。持っている物を失わないために防御する。身構え、戦い、排除する。彼らはひと時も安心できない。絶えず不安に脅かされている。他方に、自分たちの宝物を携え、それを救い主に捧げて、手ぶらになって喜んで帰って行く人々がいる。人間の深い安らぎ、喜び、それは自らの持てる物を捧げるべき方に捧げるということの中にあるということを、聖書は言っているのである。

 三人の占星術の学者は、どうして自分たちの大切な宝物を幼子イエスに捧げたのか。聖書は「彼らはひれ伏して幼子を拝み」と記している。この幼子が神から自分たちに遣わされた救い主、メシアであると信じたからである。マタイ福音書はこの救い主のことを「インマヌエル、神は我々と共におられる」と記している。救い主が主の宮殿や屋敷に生まれず、ありふれた貧しい家に、平凡な田舎娘マリアから生まれた、それが学者たちの発見だった。神は私たちと共におられる。私たち貧しい者たちと、私たち遠く疎外された者たちと共におられる。だから宝物を捧げたのである。

 人は誰も宝物を持っている。握りしめている。これがないと生きていけない。そう思いながら。しかし、それ以上に素晴らしい朽ちない本当の宝物が与えられた。それが、神は私たちと共におられる、と言われる救い主イエスである。この弱い私たちと共に救い主はいて下さる。この罪人である私たちと共に神はいて下さる、これが私たちの本当の宝物、その宝物が私たちに与えられたのがクリスマス、イエスの誕生。クリスマスの喜びはそこにある。神は選ばれた誰かの救い主ではない。貧しい罪人の救い主である。だから、心から感謝して救い主の誕生をお祝いしよう。

キリストの処方箋

2018-01-04 15:47:15 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2017年12月17日 アドベント第三主日礼拝 杉野省治牧師
「キリストの処方箋」  マタイによる福音書9章9-13節

 大勢の徴税人や罪人たちが主イエスや弟子たちと一緒に食事をしているのを見て、ファリサイ派の人たちが主イエスを非難した。この非難には理由があった。徴税人はこの時代、人々から嫌われ、罪人扱いされていたからである。理由は、彼らユダヤ民族を支配していたローマ帝国のために税を取り立てるという下請けの仕事をしていたから。おまけに、彼らは税金を不正に集めていた。それは律法に反することだった。いずれにせよ、彼らは神との関係を真剣なものとは考えていなかった。だから律法も本気で守ろうとは思っていないと見られていた。そういう人々と食卓を共にすることは大変危険なことであった。彼らの生活に巻き込まれれば、自分も神から離れ、神を忘れ、神の国と無関係の者になってしまう恐れがあったから。朱に染まれば赤くなる、というわけである。

 それに対して、主イエスは答えられた。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である」「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。主イエスはファリサイ派の人々に皮肉を込めて、「丈夫な人」とか「正しい人」とか言ったのではない。ファリサイ派の人々が「丈夫な人」であり、「正しい人」であることを主イエスは認めている。一方、徴税人たちは、ファリサイ派の人々が言うように、彼らの生活には重大な欠陥があったし、罪人呼ばわりされても仕方ない生活ぶりだった。

 しかし主イエスは自分が来たのは、医者が来たのと同じだと言われた。医者はけがや病気の人がいればどこにでも行く。そして主イエスは、預言者ホセアが伝えた神の言葉によってご自分を説明された。神はいけにえでなく、「憐れみを求める」とホセア書6章6節ある。主イエスはご自分を神が求めたその憐れみと結び付け、さらに医者と結び付けられた。つまり、主イエスは私たちの医者なのである。神が求める憐れみを行う医者。収税所に座っていたマタイを召したのも、罪人を招いて一緒に食事をしたのも、神からの医者である主イエスの癒しの行為であり、憐みによる治療だったのである。マタイは収税所に座っていた。それは主イエスの目には医者を必要とする病人の姿だった。

 今朝のみ言葉の中心は、主イエスの招きにある。「私に従いなさい」と主イエスは言われた。それが主イエスの癒しの行為だったのである。ということはそこに主イエスの診断があり、それに基づく処方箋がそれだったということである。そして罪人を招いて一緒に食事をする。それも主イエスの憐みに満ちた処方箋である。そこから新しい世界が始まる。主イエスの交わりに入れられた新しい世界である。他のあらゆる生活関係がほどけて、主イエスとの関係が入れ替わる。

 「私に従いなさい」と言われた主イエスは、罪人と一緒に食事をされる。本当の名医である主イエスは、患者がどんな難病の病人であってもそれを放置されない。一緒に食べよう。共に生きようと招かれる。主イエスは「神我らと共に」であり、共におられる神。そこに主の憐みと赦しがあり、癒しが起こる。徴税人たちが実際は善良な人々であったということはない。しかし主の招きを受けて、彼らは皆、主イエスのものとされ、主にあって善良な人々へと変えられたのではないだろうか。それが十二弟子のひとりマタイであり、あるいはルカ福音書が伝えるザアカイである。ファリサイ派の人々の目には希望のない徴税人や罪人だったが、その人々が主イエスの招きに会えば、神の救いに入れられる。神との関係に入れられる。神の支配、神の愛の中に入れられる。そして、キリストと共なる人生に生きる人々を生み出す。それは徴税人マタイが持っていた彼特有の資質によってそうなったのではない。主イエスの招きそのものがもたらす奇跡である。主イエスの憐みが、それに応えて立つ人を起こし、主にあって有為の善人に作り変えるのである。主イエスの憐みが奇跡を超すのである。

 「私に従いなさい」。これが私たちの医者である主イエスの私たちに対する今朝の主の憐みによる診断と処方箋である。私たちの病にはこれが必要。疲労し、疲れて座っている私たち、あるいは病んで床についている私たちが、あるいは人生を終わろうとしているときに、「私に従いなさい」と主は招いてくださる。主イエスは私たちのあらゆる状態をご存じであり、私たちに最良の処方箋をくださる。「私に従いなさい」。だから私たちも主についていくことができる。「彼は立ち上がってイエスに従った」とあるように、立ち上がることができるのである。主についていくことで、新しくされ、新しい人生を生きることができるのである。主の召しに応えて、立ち上がって、新しい人生を歩んでいこう。

新年の祈り

2018-01-02 06:56:20 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年1月1日 新年の祈り

 明けまして おめでとうございます。2018年も主の守りと導きをいただきながら信仰生活に励みましょう。以下、先人の祈りを載せました。祈りをあわせましょう。

 すべてのものを新しくしたもう永遠の神よ、私たちは今、古き年を終ろうとしています。恵みに満たされた日々、与えてくださった多くの良い機会、愛による人々との交わり、神よ、感謝します。
 今、再び、未来に向かって第一歩を踏み出そうとしています。
 あなた以外に安全なこと確かなことは何もありません。あのベツレヘムの星にひたすら従い続けた三人の学者たちの勇気を与えてください。行く先を知らない時にも、深い真理の道を信じて歩み続けた学者たちの勇気をお与えください。
 新しい年も、神よ、共にいまし、私たちの旅路を励まし導いてください。主にある平安、シャロームの信仰を私たちの導きの星としてください。
                                                        (フランシス・ブリーネン)

 主よ、この新しい年に私を待っているすべての可能性を信じて感謝します。
 多くの混乱、絶望、恐怖の現実に直面する時も、知恵と勇気と判断力をお与えください。いかなる状況の中にあっても、平和と信仰と愛の社会を築くために貢献する道をお示しください。そしてその願いを行動に移す強い意志をお与えください。               (ジョン・フォックラー)

 私の心は喜びに踊り、私の唇は黙し得ず、昔の天使の歌をうたう。
 いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。
 喜ばしき新しい年よ、全地に来たれ。      (マルティン・ルター)

数えてみよ主の恵み -平塚教会2017年10大ニュース-

2018-01-02 06:49:42 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年12月31日 数えてみよ主の恵み
-平塚教会2017年10大ニュース-

 今年最後の祈祷会(12/27)で2017年平塚教会の10大ニュースを選びました。

①なによりも今年は、子どもプロジェクトを推進したことが一番だろう。こひつじ館の完成、子ども献金の開始、活動内容の選定など、一つひとつ信徒
会などで話し合いを重ねて進めてきた。来春はいよいよ活動開始。

②伝道礼拝を証しと聖歌隊賛美をもって行う(2/19、9/17、11/19)。6月には中田義直牧師の特別伝道礼拝を行った。9名の求道者の参加があった。

③手芸の会、4月より地域へ呼びかけ、新たに参加者が与えられた。

④4/16イースター礼拝(41名)。新来者(求道者)が与えられた。

⑤サマーナイト礼拝(7/23)今年も大勢の子どもの参加があった(20名)。

⑥バプテスト誌「教会インタビュー」欄に当教会が紹介される。

⑦チャリティーコンサート(10/21)90名、飯塚夫妻と矢野りりこさん、高橋由美さんによる楽しいコンサートだった。

⑧もちつき会(3/20)62名、教会バザーは11/3に変更して実施。それぞれ楽しい交わりの時を持った。奉仕に感謝。

⑨女性会・サロン虹合同クリスマス会15名、子どもクスマス会(子ども5名)、クリスマス礼拝40名、キャンドル礼拝34名、聖歌隊の老人ホーム
(2か所)でのクリスマス賛美の奉仕。今年も多くの方々とクリスマスの喜びを共にでき感謝。

⑩漏電ため、会堂・教育館の電灯、電線の補修。プリンターの購入。

 この他にも毎週の教会学校、主日礼拝、祈祷会をはじめ、神学校週間、世界祈祷週間の取り組み、「サロン虹」、「みんなのカフェ」、ホームレス支援の炊き出しなど、皆さんの祈りと奉仕によって喜びと恵みにあふれた1年となりました。主に感謝。2018年の新しい年も、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り」ながら、主の働きに励みましょう。