平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

愛の広さ、長さ、高さ、深さ

2018-01-23 11:43:00 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年1月21日 主日礼拝 杉野省治牧師
「愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 詩編23篇

 この23篇は、何千年もの間、貧しさ、不安、あるいは戸惑い、どうしようもない行き詰まりの中にあった人たちに、大きな力を持って臨み、励ましてきた。それはこの歌が、乏しい中で主に養われ、渇いているときに憩いのみぎわにともなわれた経験を通して「主がそれをなしてくださった」と告白しているからである。そしてそれが私たちの希望であり、信仰の立ち所なのであることを教えてくれる。

 羊飼いである主は私に青草を豊かに与え、命の水に導かれる。穏やかで何不自由ない営みが繰り広げられているかのような光景である。しかしながら、生きていることが平穏無事に守られている以上に、人は生きるための命をどのように養われているかの確認の歌でもあることに気付かされる。「主はわたしを……」「あなたがわたしを……」「あなたはわたしに……」というように、この詩人は告白している。生きるための命を養ってくださるのは、羊飼いであるお方、主であると告白しているのである。

 主イエスも言われた。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。激しいまでの過酷な労働を伴うのが羊飼いであり、ついには一匹のために命を捨てるのが羊飼いであるなら、私たちの命のためにどれほどの代償が払われているかをあらためて見つめ直してよいのではないか。命の育みのためには、目に見えないところで羊飼いとしての主なるお方の働きがあることを覚えねばならない。

 親が子に対して、どれだけの代償を払い、子どもの気づかないところでいろいろな世話をし、養育してくれたか、子どもは何も知らず、気づかずに過ごしていることがあるが、そのことを思わせられる。ことわざに「親の恩、子知らず」とある。 「神の恵み、人知らず」ではないか。

 私たちは教会生活、信仰生活の中で、ともすると無気力さに陥ることがある。礼拝に出ても単に守るべきものとして出ているだけで、そこには何の喜びも力も感じない。また、どんなに聖書のことを知っていても、知っていることからは本当の信仰のメッセージ、力は湧いてこない。

 信仰は気づかなければならない。しかし、気づかせてくださるのは聖霊の働きである。気づいて、「ああ、そうだったのか」とあらためて確認し、新しく主と出会う。出会って、そこで、「主はわたしに……」と言って告白し、そして神に望みを置くという、そこに立つことが大事。

 そういう意味で主に出会った人々が、何千年もの間、この詩篇を読むたびに、心の中でアーメン、アーメンと唱えながら、この詩篇を歌い続けたということは、なんとすばらしいことだろうか。

 5節にあるように、私たちは「主の食卓」に招かれている。そして主はいつもあふれるばかりの恵みと慈しみを与えてくださっているのである。いや、追いかけてまで、私たちに恵みと慈しみを与えてくださるのだ(6節)。これにまさる喜び、感謝はない。今朝も主は私たちに呼びかけておられる。招いておられる。





力を抜くこと

2018-01-23 10:37:55 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年1月21日 力を抜くこと

 朝日新聞(1月14日)の「加藤登紀子のひらり一言」に「力を抜くことに、力を入れましょう‼」とあった。思わず膝を打った。言いえて妙。力を抜くのに力を入れる。矛盾したことだが加藤登紀子は次のように言っている。「冗談言ってるんじゃないのよ、これ整体の先生のセリフ。そう、力抜くことさえ出来れば、全部うまくいくのよ。それで体幹も鍛えられる!」。

 これって、生き方にも当てはまる。いつも全力投球じゃ、疲れていつかポキリと折れてしまう。付き合う方だって(例えば家族や友人、同僚など)疲れて付き合いきれない。昔20代の頃、校長に言われた。「杉野先生はいつも直球勝負の全力投球だね。時にはカーブを投げることを覚えなさい」。直球の全力投球がカッコいいと信じ込んでいた私。でもいつもそれでは相手の生徒は疲れてしまう。静かに聞いているようだが、実は聞き流すようになる、というわけだ。また。若い時はいいが、年を取ると直球だけでは勝負にならなくなる。校長の一言にハッとして、そんなことを気づかされた。それからは、生活に仕事にメリハリをつけることを意識するようになった。

 力を抜く、リラックスする。時には休みが必要だ。しかし、この休みをうまく休めない人がいる。本気で(力を入れて)休めない、遊べない人のことだ。リフレッシュできていない。次に備えて鋭気を養うためには思いっきり遊んだり、趣味を楽しんだり、息抜きをちゃんと考えて行うことだ。呼吸と同じ。思い切り息を抜く(息を吐く)と次は自然と(気張らないでも)息は入ってくる。よくしたものだ。

 日本では昔から「ハレ」と「ケ」ということを言った。「ハレ」は 儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、「ケ」は普段の生活である「日常」を表している。ハレの日はごちそうや酒を飲み、晴れ着を着たりして、日常とけじめをつけていた。信仰生活でいうならば、日曜日に日常の生活から離れて教会へ行き礼拝を守る。そして日常の生活へと帰って行く。この一週間のリズムは、長い人生において、メリハリというかケジメがついて有益だろう。だらだらと流されないために。