平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

献げるクリスマス

2018-01-04 16:19:13 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2017年12月24日 クリスマス礼拝 杉野省治牧師
「献げるクリスマス」  マタイによる福音書2章1-12節

 救い主の誕生に際して、対照的な二人の人物が描かれている。一人は三人の占星術の学者たち、もう一人は当時のユダヤの王ヘロデである。占星術の学者たちは東の国、東メソポタミアからやって来た。そのメソポタミアの世界では、星を観察するということが盛んに行われて、星の動きによって地上に起こるすべてのことを占っていた。今でいう天文学者である。

 その三人の占星術の学者たちが一つの星を見上げて新しい王の誕生を信じ、旅立った。彼らが新しい王を捜し求めてエルサレムのヘロデ王の住む宮殿に来たのは、至極当然のことであろう。新しい王は王の宮殿に生まれる、そう考えたからである。彼らはヘロデ王に尋ねた。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」。新しい王の誕生というニュースは、ヘロデ王にとっては驚きであり、警戒すべきものだった。なぜなら、ローマの支配に反乱を企てる人物がたびたび出現していて、そういう人物を待望し担ぎ上げる雰囲気が、当時のユダヤの民衆の中に蔓延していたからである。

 自分の地位が脅かされる。だから不安を感じた。彼は祭司長や律法学者たちを集めて、メシア(救い主)はどこに生まれるのか、「問いただした」。「問いただした」という言葉にヘロデの不安がにじみ出ている。なんとしてでも捜し出そう、そういう思いである。

 その場所はユダヤのベツレヘムだと聞くと、ヘロデ王は学者に言う。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」(8節)。「行って拝もう」というのは口実で、なんとしてでも見つけ出して、抹殺しようという思いである。

 もしそんな王が生まれたら、それを担ぎ出して民衆が騒ぎ始めたら、自分の地位が脅かされる。生き残るために何としても排除しなければならない。自分の持てるものを守ろうとする者の不安である。権力や財産や地位を持つ人間に不安はないか。そんなことはない。権力を持ち、お金を持ち、地位を得ている人間ほど多くの不安を抱えて生きている。だから怯え弾圧する。

 一方、三人の占星術の学者はメシア(救い主)を見出して、誕生した幼子イエスに出会った時、何をしたか。意外なことだった。彼らは持ってきた黄金、乳香、没薬を捧げた。「宝の箱を開けて」と記されている。彼らの宝物である。それを捧げて喜んで帰って行いったのである。

 一方にお金や地位、権力を握りしめている人間がいる。持っている物を失わないために防御する。身構え、戦い、排除する。彼らはひと時も安心できない。絶えず不安に脅かされている。他方に、自分たちの宝物を携え、それを救い主に捧げて、手ぶらになって喜んで帰って行く人々がいる。人間の深い安らぎ、喜び、それは自らの持てる物を捧げるべき方に捧げるということの中にあるということを、聖書は言っているのである。

 三人の占星術の学者は、どうして自分たちの大切な宝物を幼子イエスに捧げたのか。聖書は「彼らはひれ伏して幼子を拝み」と記している。この幼子が神から自分たちに遣わされた救い主、メシアであると信じたからである。マタイ福音書はこの救い主のことを「インマヌエル、神は我々と共におられる」と記している。救い主が主の宮殿や屋敷に生まれず、ありふれた貧しい家に、平凡な田舎娘マリアから生まれた、それが学者たちの発見だった。神は私たちと共におられる。私たち貧しい者たちと、私たち遠く疎外された者たちと共におられる。だから宝物を捧げたのである。

 人は誰も宝物を持っている。握りしめている。これがないと生きていけない。そう思いながら。しかし、それ以上に素晴らしい朽ちない本当の宝物が与えられた。それが、神は私たちと共におられる、と言われる救い主イエスである。この弱い私たちと共に救い主はいて下さる。この罪人である私たちと共に神はいて下さる、これが私たちの本当の宝物、その宝物が私たちに与えられたのがクリスマス、イエスの誕生。クリスマスの喜びはそこにある。神は選ばれた誰かの救い主ではない。貧しい罪人の救い主である。だから、心から感謝して救い主の誕生をお祝いしよう。

キリストの処方箋

2018-01-04 15:47:15 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2017年12月17日 アドベント第三主日礼拝 杉野省治牧師
「キリストの処方箋」  マタイによる福音書9章9-13節

 大勢の徴税人や罪人たちが主イエスや弟子たちと一緒に食事をしているのを見て、ファリサイ派の人たちが主イエスを非難した。この非難には理由があった。徴税人はこの時代、人々から嫌われ、罪人扱いされていたからである。理由は、彼らユダヤ民族を支配していたローマ帝国のために税を取り立てるという下請けの仕事をしていたから。おまけに、彼らは税金を不正に集めていた。それは律法に反することだった。いずれにせよ、彼らは神との関係を真剣なものとは考えていなかった。だから律法も本気で守ろうとは思っていないと見られていた。そういう人々と食卓を共にすることは大変危険なことであった。彼らの生活に巻き込まれれば、自分も神から離れ、神を忘れ、神の国と無関係の者になってしまう恐れがあったから。朱に染まれば赤くなる、というわけである。

 それに対して、主イエスは答えられた。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である」「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。主イエスはファリサイ派の人々に皮肉を込めて、「丈夫な人」とか「正しい人」とか言ったのではない。ファリサイ派の人々が「丈夫な人」であり、「正しい人」であることを主イエスは認めている。一方、徴税人たちは、ファリサイ派の人々が言うように、彼らの生活には重大な欠陥があったし、罪人呼ばわりされても仕方ない生活ぶりだった。

 しかし主イエスは自分が来たのは、医者が来たのと同じだと言われた。医者はけがや病気の人がいればどこにでも行く。そして主イエスは、預言者ホセアが伝えた神の言葉によってご自分を説明された。神はいけにえでなく、「憐れみを求める」とホセア書6章6節ある。主イエスはご自分を神が求めたその憐れみと結び付け、さらに医者と結び付けられた。つまり、主イエスは私たちの医者なのである。神が求める憐れみを行う医者。収税所に座っていたマタイを召したのも、罪人を招いて一緒に食事をしたのも、神からの医者である主イエスの癒しの行為であり、憐みによる治療だったのである。マタイは収税所に座っていた。それは主イエスの目には医者を必要とする病人の姿だった。

 今朝のみ言葉の中心は、主イエスの招きにある。「私に従いなさい」と主イエスは言われた。それが主イエスの癒しの行為だったのである。ということはそこに主イエスの診断があり、それに基づく処方箋がそれだったということである。そして罪人を招いて一緒に食事をする。それも主イエスの憐みに満ちた処方箋である。そこから新しい世界が始まる。主イエスの交わりに入れられた新しい世界である。他のあらゆる生活関係がほどけて、主イエスとの関係が入れ替わる。

 「私に従いなさい」と言われた主イエスは、罪人と一緒に食事をされる。本当の名医である主イエスは、患者がどんな難病の病人であってもそれを放置されない。一緒に食べよう。共に生きようと招かれる。主イエスは「神我らと共に」であり、共におられる神。そこに主の憐みと赦しがあり、癒しが起こる。徴税人たちが実際は善良な人々であったということはない。しかし主の招きを受けて、彼らは皆、主イエスのものとされ、主にあって善良な人々へと変えられたのではないだろうか。それが十二弟子のひとりマタイであり、あるいはルカ福音書が伝えるザアカイである。ファリサイ派の人々の目には希望のない徴税人や罪人だったが、その人々が主イエスの招きに会えば、神の救いに入れられる。神との関係に入れられる。神の支配、神の愛の中に入れられる。そして、キリストと共なる人生に生きる人々を生み出す。それは徴税人マタイが持っていた彼特有の資質によってそうなったのではない。主イエスの招きそのものがもたらす奇跡である。主イエスの憐みが、それに応えて立つ人を起こし、主にあって有為の善人に作り変えるのである。主イエスの憐みが奇跡を超すのである。

 「私に従いなさい」。これが私たちの医者である主イエスの私たちに対する今朝の主の憐みによる診断と処方箋である。私たちの病にはこれが必要。疲労し、疲れて座っている私たち、あるいは病んで床についている私たちが、あるいは人生を終わろうとしているときに、「私に従いなさい」と主は招いてくださる。主イエスは私たちのあらゆる状態をご存じであり、私たちに最良の処方箋をくださる。「私に従いなさい」。だから私たちも主についていくことができる。「彼は立ち上がってイエスに従った」とあるように、立ち上がることができるのである。主についていくことで、新しくされ、新しい人生を生きることができるのである。主の召しに応えて、立ち上がって、新しい人生を歩んでいこう。