<先週の説教要旨>2018年1月28日 主日礼拝 杉野省治牧師
「信仰によって生きるとは」 コリントの信徒への手紙二 4章7-15節
この聖書箇所には、神を信じる者の生きる姿が描かれている。この手紙を書いたパウロは8-9節で次のように言っている。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」
ということは、逆に考えれば、神を信じるから苦労しないとか、生活が楽になるとか、そういうことは言われていない。あるいは信仰を持っているから物事がうまく運ぶとか、成功するとか、そういうことも言われていない。おそらくここで書かれていることはすべて、パウロ自身が経験してきたことだろうし、今も経験していることだろうと思う。信仰を持って、つまりイエス・キリストを信じてずっと生きてきた。しかし、四方から苦しめられる経験をする、人から虐げられる経験をする。あるいは途方に暮れる、道が見えなくなってしまう、これからどう進んでいいかわからなくなってしまう。
その中でパウロはこう言っているのである。四方から苦しめられても行き詰まらない。道が全く見えなくなって途方に暮れることがあるけれども、それでも失望しない。あるいは人々から虐げられる、ひどい目に遭う。しかしそれでも自分が見捨てられないのだ、と彼は言うのである。打ち倒されても自分は底力によって立ち上がるというのではない。打ち倒されるのである。しかし滅びない、と彼は言う。打ち倒されても滅びないというのは、神が自分を滅ぼされないという意味である。つまり、絶体絶命の中で、しかし滅ぼされはしない。追い詰められてしまうけれども、しかしそこで終わらない。そこで生きるというのである。
人は誰でも普通、追い詰められたらもうおしまいだと思う。自分の力で頑張ってきたけれども、もう立てなくなって、打ち倒されてしまったら、それで終わりだと思う。そして、それが自分の運命か、あるいは宿命なのか考え、諦める。しかし、神を信じる者は、まさにその状況の中で生きる、とパウロはここで言うのである。つまり、そのどん詰まりの場所で、神を信じる者は生きるのである。虐げられて弱り果てている。しかし見捨てられはしない。神に見捨てられてはいない、とパウロは言う。それが彼の支え、だから彼はそこで生きる。
詩編の46編2節にこういう言葉がある。「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」 神は私たちが苦難の中にいる時に、私たちを天から見守っておられるというのではない。苦難の中に必ずそこにいまして助けてくださる。だから私たちは苦難の中で生きられるのである。神が共にいてくださるから。それが、イエス・キリストの約束。神が、この私たち罪人と一緒にその場所にいてくださる。四方がふさがっても、逃げ道がもう何も見えなくなったとしても、そこで呼吸ができる。生きる道がある。あるいは、生きる道がそこに生まれる。必ずそこにいまして私たち助けてくださる。パウロは「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」と書いている。
死ぬはずのこの身に、終わるはずのその場所に、イエスの命は現れる。行き詰ったところで死なず、倒れたところが終わりではなく、そこで神と出会い、交わり、そこで生きる、生かされる。そこが私たちの生きていく原点になる。追い詰められたその場所が、私たちが倒れたその場所が、私たちが生きていく原点になる。新たな出発点となる。より深い恵みの世界への出口となる。
信仰によって生きるって、なんと素晴らしいことだろう。信仰に生きるって、なんて恵みに満ちあふれていることだろう。この恵みに感謝しつつ、歩んでいこう。
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