平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

きみもそこにいたのか

2013-03-28 11:15:35 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年3月24日 きみもそこにいたのか

 昔よく歌った「きみもそこにいたのか」(『聖歌』400番。聖歌の友社)はアフリカン・アメリカン・スピリチュアル(黒人霊歌)の名作と言われている。黒人奴隷たちが、キリスト教を受け入れた時、そのキリスト教は、支配者である白人たちのキリスト教とは大きく異なるものになった。それは、異なったというよりは、むしろ本来のキリスト教に帰ったという方が正しいのかもしれない。

 イエスは「徴税人や罪人の仲間」と呼ばれた(マタイ11:19)。イエスのまわりに集まったのは、貧しい人々、差別された女性、社会から排除された病人や障害者たち、底辺の人たちだった。黒人奴隷たちは、自分たちこそ、イエスのそばに招かれていることを感じ取っていた。

 「きみもそこにいたのか」と問う時、黒人奴隷たちは、「自分はあそこにいた」という思いでいっぱいだったのだろう。「主が十字架につく時」、私はあそこにいた、そして主を見捨てた。ペテロのように。「その人を知らない」と言った。「たとえ死なねばならないとしても、あなたのことを知らないなどとは、決して言いません」と誓ったのに、その時には、本当に心からそう思っていたのに、それなのに……。

 悲しみと悔いと畏れのために、身も心もふるえる、ふるえる、ふるえる。三回、その度に低い音に移りながら繰り返して、一番低いどん底まで落ちた、その絶望のどん底で、「主が十字架につけられ、釘打たれ、槍で刺され、墓に納められた」のは、まさに、このような罪の私のためであったという信仰が立ち上がってくる。

 十字架の死が復活の命へと変わる時、絶望は希望へと変わる。「きみも墓にいったのか」という問いに、「わたしはいった」と、心から叫ぶことができた黒人奴隷たちの信仰が、今この歌を歌う私たちにも響いてくる。「きみもそこにいたのか」という問いと共に。

 *『さんびかものがたりⅢ』(川端純四郎著 日本キリスト教団出版局2010)116-117p参照。