(先週の説教要旨) 2013年3月3日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「罪ゆるされて」 ルカによる福音書7章36-50節
イエスがパリサイ人の食事の招きを受けることは決して珍しいことではない(11:37、14:1)。当時、巡回する教師をとりわけ、安息日の午後に招き、もてなすことは一つの功績と見なされていた。パリサイ人シモンも決して悪意からではなく、イエスを偉大な教師として尊敬し、食卓に招いた(36節)。しかし彼も結局、律法によって、自分を正当化した。悲しみを負う一人の罪の女の悲しみを見ることなく、彼女を見下した。さらにそのような罪深い女に、体に触れさせているイエスをも軽蔑した。
私たちは時に自分の罪を認めず、「自分は健康である。私は見える」と言い張る(ヨハネ9:41)。自分の汚さ、醜さをごまかして、自分を正当化しようとする。その私たちが現在、教会でイエスと共に食卓に与かっている。そこにも危険がある。その食卓に安住し、シモンのように、そこに来ようとする人を見下し、裁くことはないだろうか。私たちもまた罪人に他ならないのではないか。
罪の自覚がないシモンに、イエスは「二人の負債者のたとえ」を語る(41-42節)。この負債は罪を意味している。重要なのは「返すことができなかった」(42節)という点。罪は決して自分では処理することができないものだ。しかし、神はその罪を赦してくださる。
この一人の罪の女は惨めさの中で生きていた。自分の汚さ、醜さを痛いほど十分、分かっていた。しかし、彼女はイエスとの出会いによって、神の赦しの言葉を聞いたのである。「貧しい人たちは幸いである」(ルカ6:20)という御言葉の真実に触れ、神に生かされている喜びを知ったのである。
罪の自覚が大きいほど、赦しに触れた時、赦しの確信は大きい。「罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれ」る(ローマ5:20)。そして赦しの確信が大きいほど、真の喜びと愛が満ちあふれる。
この喜びと愛に満ちた一人の女がシモンの家に入って来て、イエスの足に香油を塗った。足に接吻して香油を塗るのはその人に対する尊敬、感謝のしるし。その時、彼女はおもわず涙を流した(37-38節)。この涙は悲しみの涙ではなく、罪に苦しみ、嘆き続けた人がゆるされ、受け入れられた感謝の涙である。
この感謝から真の愛が生まれる。愛とは自分がゆるされたゆえに他者をゆるし、自分が受け入れられたゆえに、他者を受け入れることにほかならない。この真実が47節に一言で要約されている。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。私たち人間の愛の実践が先行するのではなく、神の赦しが先行するのである。恵みの先行である。神の赦しからすべてが始まる。