平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

バプテスマってな~に?

2012-09-25 14:39:32 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年9月23日 バプテスマってな~に?

 「お宅の教会は?」と聞かれ場合、当然、「平塚バプテスト教会です」と答える。すると、まず「それなんですか」という顔をされる。「バプテスト」と一回で発音できる人もほとんどいない(かく言う私もかつてはそうだった)。そこで怪しげな団体と誤解されないように「キリスト教会です」と急いで付け加えることになる。

 バプテストとは、幼児洗礼を否定し、聖書に示された洗礼、すなわちバプテスマは信仰告白に基づく「浸礼」であるとする教派の名前である。しかし「バプテスマ」って言っても先ほどと同じで、けげんな顔をされるが、「洗礼」と言うと少しはわかってくれる。

 しかし「バプテスマ」を「洗礼」と訳したことによって、洗い清めるというイメージが強くなって、本来の意味が誤解されている。バプテスマとは、水に浸されて罪に死に、水から起き上がらされて復活のいのちに生きるという意味だから、「浸礼」の訳のほうがよい。

 罪に死に、新しいいのちによみがえることを象徴するために水による儀式を行う。キリスト教事典によると「水によって行う聖礼典で、父と子と聖霊のみ名によって授けられる。福音を信じ悔い改めてこれを受ける者は、罪の赦しと新生を与えられ、キリストの死と共に古き人に死に、彼の復活と共に新しき人によみがえらされるのである。その新しき人はキリストの体の肢となって教会に加えられ、キリストによる救いを確かにされる」とある。

 バプテスマを受けることは、信仰生活のスタートである。スタートを切るにはやはり決断が大切である。ともかく、すべて神にお任せして飛び込むことである。神が導いて下さるから飛び込めるのである。主は言われた。「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(ヨハネ福音書6章44節)。今日の2人の兄弟のバプテスマ式に神の祝福と主の執り成し、聖霊の導きがあるようにと祈る。

イエスさまの目線

2012-09-25 14:33:38 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年9月16日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「イエスさまの目線」 ルカによる福音書19章1-10節
 
 ザアカイは人々から嫌われ罪人とされていた。私たちがそういう人と交わっていると、いろいろな傷を受けたり苦しんだりするので、そのような人は避けて、できるだけ無難な人との付き合いを求めるようになる。しかし、主イエスはザアカイを愛された。それは彼の中に価値を見出されたからではなく、彼もアブラハムの子であると見られたからである。それが神の人を見る目だと思う。
 
 つきあって何の役にも立たない、かえって損になるような人、いやな人、またどんな性格の人であっても、その中にアブラハムの子であるというものを見出していくところに、主イエスが来られた意味がある。本来はアブラハムの子であるから、素晴らしい信仰生活をしていなければならないはずである。しかしそういうものを失ってしまっている人に、もう一度自分がアブラハムの子であることを分からせるために、主イエスは来られたのである。
 
 人間関係は信頼するということが一番大切である。人から信頼されると、私たちはそれを裏切らないように心掛ける。信頼していくということは、結局は勝利だと思うが、同時に非常に難しいことである。信頼を裏切っていく者を、なお信頼していくところに、主イエスが生きられた道、語られた教えがある。人を本当に立ち返らせていく力というものは、人の非を突くことではなく、その人を信頼していくことである。それはあらゆる世界において言えることではないかと思う。
 
 ザアカイという一人の失われた者が、新しく正しい生き方に自分から進んで出ていったのは、主イエスが彼を信頼されたからである。先に声をかけられたのは主イエスである。主イエスは私たちに対して、また人々に対しても、その人もアブラハムの子である、神から愛されている者であるというまなざしで見ていかれる。
 
 ところで、その主イエスの愛のまなざしはどのような目線であったのだろうか。主イエスは木に登ったザアカイの下に来られた。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた」(5節)。救いというと、救い上げるという言葉をなんとなく考える。上にいる、天にいる神が、私たちに救いの手を差し伸べて、救い上げてくださると考える。でも、救い主イエスは、ザアカイよりも下に来たと聖書は語っている。そしてさらに、主イエスはその後、ザアカイの家にまで出かけてくださり、客となられた。客となるということは、心を許す友となるということである。主イエスはザアカイさんの友となられたのである。

 収税人ザアカイの物語の最後にこう書いてある。「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから、人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである』」。私たちに与えられた福音は、この失われたもの、失われた魂の救いである。木から降ろしていただき、しっかりと救い主に受け止めていただく経験である。そこに悔い改めが起こる。そして新しい人生が始まる。