平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

プロテスタントってな~に?

2012-09-19 17:52:46 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年9月16日 プロテスタントってな~に?

 よく「お宅の教会はカトリックですか?プロテスタントですか?」と聞かれることがある。「プロテスタントです」と答えると、「ああ、そうですか」でこの会話は終わる。もっと質問してくれればと思うが、それ以上はなかなか進まない。でも「備えあれば憂いなし」。質問された時に簡潔に説明できるようにまとめてみた。

 皆さんは、プロテスタントっていうと何を連想しますか?宗教改革者のマルチン・ルターでしょうか。中世の時代、宗教改革の波が次第に大きくなるなか、ルターは1517年10月31日、95ヶ条の堤題を発表しました(1517年を「一語否」と覚えましょう)。この時から宗教改革の波は大きくなり、歴史を動かしていきました。

 宗教改革は当時のカトリック教会に抗議・抵抗したという意味で、「プロテスタント」と呼ばれますが、「抗議」よりも「公示、公告」という意味の方がよいかも知れません。なぜなら、福音の真理を聖書によって公然と証していたからです。では、ルターは何を訴えたのでしょう。それは「ただ聖書のみ」「ただ信仰のみ」の二つです。

 教会の考え方もカトリックとは違います。プロテスタントはキリストを通して教会に結びつく。カトリックは教会を通してキリストに結びつくと言われます。教職の考え方も違います。プロテスタントはいわゆる「万人祭司」の考えです。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(ペテロ一2章9節)などが根拠です。

 プロテスタントは宗教改革の伝統に立ちます。改革者が立った聖書に直接福音を聞くあり方、生き方、対し方です。その宗教改革者の精神とは、み言葉への復帰、良心的にして主体的信仰への立脚、そして十字架直下に立つ教会形成です。その意味で、宗教改革というより教会改革だということもできます。まず自らが改革されるべきで、その改革は今も続けられなければならない。信仰のあり方も含めて。常に改革者、それがプロテスタントです。

私は何者か

2012-09-19 17:49:15 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年9月9日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「私は何者か」 ヨハネの手紙一 3章1-3節

 人間は誰でも自分の生き方が分からなくなり、「どう生きたらよいか」「私は何者か」と自問する時がある。「アイデンティティの問い」と言われ、それが分からないと、自分自身が分からず、自己喪失に陥ってしまう。

 今日の聖書箇所は、この問いに見事に答えている。「私は何者か」の問いに、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」(2節)と答える。私たちには挫折の時がある。迷ったり、背いたり、無力だったり、病んだり、疲れていることもある。そしていつも神にふさわしくない自分を見る。しかし聖書は、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」と言う。この御言葉をそのままに受け止めなければならない。なぜならこの御言葉には十分な根拠がある。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(1節)とある。

 聖書がここで「考えなさい」と言っているのは、実は「見なさい」という言葉である。何と大きな愛を神が私たちに下さったかを見なさい、と言うのである。ぼんやり考えていてはいけない。思い煩っていてはいけない。「見なさい、神が与えてくださった愛が何と大きいかを」。具体的にはイエス・キリストを見なさいということである。キリストを見て、キリストとその生涯、そしてその十字架の出来事を見て、何と大きな神の愛が与えられたことかと知る。そしてそれによって私たちは「神の子」と呼ばれた。キリストから目をそらし、自分自身を見つめ出したら、私たちはいよいよ自分が分からなくなる。しかしキリストを見ると、何と驚くべきこと、大きな喜びの奇跡が与えられていることを発見する。思いもよらぬことだが、私たちは神にとってかけがえのないもの、大切なものとされ、独り子を犠牲にしても慈しむものとされている。そのことが分かる。

 しかし、私たちは、自分が神の子とされているということが、観念的には知ってはいるが、事実そうなっているということを実感をもって知らないのではないか。私たちは手で触れた、目で見たりするようなことから現実を見やすい。しかし、信仰はそういうところから現実を見たり、自分を見ていくのではなくて、イエス・キリストから現実を見ていくことである。それが信仰の根本である。

 自分は罪を赦されたといっても何もうれしいことはない、神の子とせられても、そのことによって何も得することはない、やはり毎日毎日食べることに汲々としておらねばならないではないか、というように現実から物を見ていったわけである。これに対して、信仰というものは神の御言葉から現実を見ていく。自分は神の子とせられているのだからというふうに見ていく。金がたまったからうれしいとか、何やらができたからどうしたというような、こちらから見ていくのではなくて、神のみ言葉から現実を見ていくことが信仰の姿である。

 この逆転の立場に立っての人生観、世界観というものがクリスチャンの生き方である。これをしっかり身につけてほしい。そうすれば信仰は両刃の剣のようなもので、どんな難しい問題がやって来ても、どんな悩みの中にあっても、「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません」と、すべてのことをえり分けていくことができる。