(先週の説教要旨) 2011年9月11日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「キリスト・イエスのしもべ」 フィリピンの信徒への手紙1章1-2節
フィリピの信徒たちに宛てられたこの手紙は、パウロが獄中で書いたので「獄中書簡」と呼ばれている。しかし、獄中書簡でありながら、本書の中には、喜びという言葉が繰り返し出てくることから、「喜びの手紙」とも呼ばれている。獄中と喜びという相反することが、パウロという一人の人間において、一つの事実になっていることは、不思議で驚くべきことである。その秘密はどこにあるのか。
この1-2節はパウロのあいさつであるが、自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」と紹介している。「しもべ」と訳されている「ドゥーロス」は、「奴隷」と訳すこともできる。パウロ自身は社会的階級としては自由人であり、ローマの市民権さえ持っている特権階級に属する。しかし、パウロは神の前における自分の姿はしもべ・奴隷であると言うのである。
奴隷やしもべというのは、自由がなく束縛されている存在だが、束縛されていると言えば私たちも同じことが言えるのではないか。実際この世の中の生活で自由がなく束縛されている。仕事があり、責任やノルマがあり、あるいは規則や法律もある。難しい人間関係があり、組織や集団に拘束されている。いやもっと深刻なことに束縛され、もがいている。それはパウロも言うように「かつては罪の奴隷でした」(ローマ6:17)という、罪。私たちはみなこの罪や「罪の報酬は死です」という「死」に、がんじがらめに縛られていると言っていいだろう。
しかしそういう絶望的な現実の中で、キリストは十字架の死を遂げてくださった。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(第一コリント6:20)と言っているが、これは十字架の死の意味について鮮やかに示している。この世の奴隷のようにお金によってではないが、イエス・キリストの十字架の尊い血によるあがないによって、新しい主人のもとに買い取られ、キリスト・イエスのしもべ・奴隷とされたのである。
パウロはこの手紙の先の方で、キリストご自身が「僕の身分」(2:7)になられました、と書いている。僕そのものとなられたと言うのである。そのような僕の姿の中にこそ、神に造られた者としての人間の本来の姿、真実の私の正体があることを示してくださったと言うのである。そしてその姿の中にこそ「恵みと平和」(1:2)が実現し、救いと喜びがあると書いている。
今やパウロは神の愛に縛り付けられたキリストの僕である。だからもはや王や支配者、権力者のものでも神々やサタンのものでもなく、死からも解放されている。だれのものでもない。ただキリスト・イエスの僕の道を歩み、十字架に死んだお方、しかし神の力によって死人の中から復活し、すべての者の主となられた(2:9以下)キリストのものなのである。
このようにしてパウロはキリストに出会い、キリストの僕として、何よりも「福音に仕え」(1:22)る者とされていった。キリストの僕として、キリストのものであることの中に、本当に深い慰めがあることを知った。私たちの人生もどのようなものであるにせよ、キリストの僕としての人生であることの中に、深い慰めと自由、喜びの秘密があることを知りましょう。
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