平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

救いは救われること

2011-09-20 13:51:01 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年9月18日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「救いは救われること」 ヨハネによる福音書3章16節      
 
 今日の説教題は変な題になった。「救いは救われること」。あたり前のようで、よく分からない。しかしよく考えてみると、あることに気づく。そう、「救われる」。受身である。自分で救うのではなく、誰かに救われること。

 たまに求道者の方からどうすれば救われるのか、という質問を受ける。大変率直な質問。なかなかこういう質問をされる方は少ないように思う。しかし、質問はされないが、心の中でそのように思われている方は案外多いのではないだろうか。このような質問をされること自体が、すでに救いを受ける準備ができていると思われる。反対に自己満足している人、自分は善人だと思い込んでいる人、あるいは自分のことしか考えない人、別の見方をすると「自分」というものから離れられない人、自分というものに縛られている人からは、このような質問は出てこない。

 自分は今のままではいけない、変わる必要がある、救われる必要がある。無意識的でもいいのだが、そのように感じられることが、救いを受ける背景、文脈になる。そういう人が聖書を読み始めると、より鮮明に自分の欠点や罪を認識するようになる。これは辛い経験だが、救いに至るプロセスとしては素晴らしいことである。

 「救われる」ということは、いろいろな言い方ができるが「神の怒りから救われる」という言い方もある。なぜなら、聖書を読むと、神の義と聖の基準が、いかに高いものであるかが分かるから。それが分かると、自分の行いによって救いを得ようとすることが、いかに愚かなことであるかが分かる。それは、神と私たちの間に、越えることのできない淵が横たわっているということに気づかされることである。これが分かると、一方的に赦していただかないと、自力ではどうすることもできないことが分かる。一方的な赦しを「恵み」と言う。

 「福音」とは、「良い知らせ」、「グッドニュース」のこと。福音は、人間が考えたものではなく、神が啓示して下さったもの。そのため、人間的な思索の延長線上でしか物事を考えられない人には、難解である。しかし、純真な心(幼子のような心)で福音に耳を傾けるならば、これほど単純で、愛に満ちたメッセージはない。「神さまはひとり子イエスを犠牲にするほどに、あなたを愛しておられる」というのが、福音の神髄。そして、この福音に応答する方法は、信仰しかない。つまり、「アーメン(その通り)」とうなずくしかないということである。

 福音には3要素がある。どれひとつ落としても、福音ではなくなる。それはパウロが第一コリント15章3-4節で言っている。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」。この3要素を受け入れ、イエス・キリストをそのようなお方として信頼する。つまり、「イエス・キリストは今も生きていて、私を救うことができる」と信じることである。これが、恵みにより、信仰によって救われるということである。これ以外に、罪人である私たちが救われる方法はない。

 あまりにあっけなく、単純なので、信じるにもなにかありがたみがないと感じられるほどである。しかし、実はその奥義は計り知れないほど深いものがあり、私たちの生活、人生、歴史に大きく影響を与えるほどに、恵みに満ちている。土の器である私たちに中に、宝をもっているようなもの。ぜひ、その宝を受け取ってほしい。