平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

愛は計算できない

2010-08-18 16:21:49 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年8月15日    杉野省治牧師

  「愛は計算できない」 ルカによる福音書15章1-7節 
 
 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1―2節)とある。しかしイエスは、不平を言い出したファリサイ派の人たちや律法学者たちに、端的に語りかけられる。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(4節)。
 
 このイエスの言葉には、何のためらいも、躊躇もない。ごく自然に、それが当たり前ではないかと言われるのである。考えてみると私たちの行動や考え方には、理屈が多すぎ、人を気にしてためらいが多すぎるのではないだろうか。
 
 ユダヤ人は遊牧の民として生きてきた。貧しい生活を強いられていたユダヤ人にとっては、羊は自分たちの生命のように大切なものであり、その生活を支える大事な物であった。羊飼いは羊の一匹一匹に名前をつけて、名前を呼んで囲いの外に出し、また囲いの中に入れていたと言われている(ヨハネ福音書10:3-5)。また、安息日の規定を厳格に守るユダヤ人であるが、自分の家畜があやまって井戸に落ちた時には、安息日でも助けてもよい、とするほどに自分の羊、自分の家畜は大切であり、自分の生命に等しいものだった。
 
 しかしイエスはあえて「九十九匹を野原に残してでも」と言われた。この言葉には、数や計算を越えた深く激しい愛が込められている。愛は計算したり、数に置き換えられないものだということが分かる。「一匹に」集中して目が注がれている。それはたとえ「九十九匹」を野原に残してでも捜しに行く、大切な「一匹」だと言うのである。
 
 私たちはそれぞれ自分の大切なものを持っている。それは他のものでは代えることの出来ない大事なもの。賞として貰ったもの、特別な記念の品、愛する人から心を込めて贈られたもの、こうした品は、それ以上に高価なものであっても代えることのできない、自分にとっては最高の価値のあるものである。神の人間への愛、真実な羊飼いの羊への愛はそのようなものだ、とこのたとえ話は語っているのだ。
 
 私たちの想像も及ばない程に九十九匹の大切さを知っている人たちの只中で、イエスは、あえて、九十九匹を野原に残してでも、見失った一匹の羊を捜し求めると語られたのである。神の人間への、この愛に圧倒される思いがする。私たちは、神の前に「かげがえのないひとり」だと聖書は語るのである。数や計算では決して計ることのできない価値ある者として、かけがいのない一人として、神は私たちを愛しておられるのである。その愛に応答することが私たちの信仰なのである。

 はい

2010-08-16 10:53:52 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年8月15日  はい

 映画『二十四の瞳』に大石先生と12人の子どもたちが初めて出会う場面がある。大石先生が一人ひとり、名前を呼ぶ。元気に返事をする子、小さな声で返事をする子、はじめて氏名を呼ばれたのか自分のことだと気づかない子、それぞれの子どもの顔がアップで映し出される。この返事の仕方がその後の子どもたちの人生を暗示することになる名場面である。

 教師が名前を呼び、子どもが返事をする。単純なその応答の中に、人間存在の本質が秘められているような気がする、と晴佐久昌英さんは本で書いている。私も長いこと教師をしていて、そのことを実感する。名前を呼ぶということは、その人がそこに「存在」しているかどうかを問う、ということである。しかし、それは「存在」の有無だけを確認するにとどまらない。たった一言の「はい」でも、その声はその人の内面をよく表わす。さらに、その時の体調や精神状態までも声に反映する。

 何よりもその人が本当に自分自身を受け入れているか否かで、返事の質は決定的に変わってくる。自分の存在を全面的に肯定するとは、自分の良いところも悪いところも、強いところも弱いところも、まるごと受け入れることである。勇気のいることである。

 しかし、私たちをまるごと受け入れてくださるお方がある。そのお方に、私たちはいつも呼ばれている。何か、とても大きな存在から、とても大きな愛を込めて。その大きな存在は、私に存在してほしいから私を生んだのだし、私に答えてもらいたいから、私の名を呼ぶ。

 その呼びかけに、きちんと「はい」と答えたい。その時初めて、私はこの世界に存在するのであり、その「はい」を言えるなら、それがどれほど苦難に満ちた世界であっても、私として生き抜くことができる。

 そしていつの日か、だれもがこの大きな存在から、最終的に名前を呼ばれる日がくる。その日、すなわちこの世から天へ呼び出される日、私たちは自分たちの名を呼ぶその声に、全面的な信頼を込めて、まっすぐに答えたい。「はい」と。

飯尾宗祇の墓

2010-08-13 10:28:46 | 風景
室町時代の連歌師宗匠・飯尾宗祇(1421-1502年9月1日)。
旅の途中、箱根湯本で病にて客死。
このお墓は箱根湯本の早雲寺境内にある。
短歌の西行、俳諧の松尾芭蕉と並び連歌の宗祇も
また漂泊の詩人であった。
名や思ふ こよいしぐれぬ秋の月(北九州市若松にて)
巌(いわお)より くだけて涼しさざれ水(白河にて)
眺むる月にたちぞ浮かるる(辞世の句)
浮かるるも金なき身にぞ月見かな(私の辞世の句の付け句、できばえはどうかな?さらに付け句をしてくれる人いませんか?連歌は楽しいよ!)
宗祇と云えば連歌、連歌で思い出すのは、大学の時、ゼミ仲間と教授たちで
仲秋の名月の夜、連歌の句会をすることになっていて、私は所用で参加できず、
悔しい思い出がある。ちなみに私の卒論は井原西鶴。関連で芭蕉、宗祇、西行と
文献や作品を読みふけったことを思い出す。

聖霊による力を受けて

2010-08-11 17:47:23 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年8月8日    杉野省治牧師

 「聖霊による力を受けて」 使徒言行録1章1-11節
 
 主イエスが十字架上で処刑された時、弟子たちは激しい失望と不安におそわれた。なぜなら、彼らは、神の子ではない人を救い主として信じてきたのではないか、また、生前の主イエスに向けていた忠実さと愛の一切が空しいものになってしまったのではないか、という疑いを持ったからである。彼らのうちのある者は、生まれ故郷のガリラヤに帰り、かつての仕事であった漁師の仕事に戻ろうとさえした。 

 弟子たちは失望し落胆していたのだが、その弟子たちが生まれ変わったように生き生きとした信仰を取り戻し、主イエスのためには自分の命を投げ出しても悔いがないと思うほどの決意を促された。なぜ、そのような出来事が弟子たちに起こったのだろうか。それは、「私たちの主は、いまもなお生きて働いておられる」という確信を抱くに至る「復活のキリスト」と会いまみえることができたからである(ルカ24章)。
 
 さらに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との約束をいただいて、祈りつつ待っているところへ、弟子たちに聖霊がくだり(2章)、新しい使命を受けたからである。 弟子たちのように聖霊が降らなければ力を得ることはできない。力を得ないなら証人となることはできない。キリスト教の解説者や学者になることは勉強さえすれば出来る。しかし、証人となることは難しい。ある神学者が、聖霊が降ってくるには私たちは自分を捨てなければならない、と言っている。聖霊をくださいと言っても、それで聖霊が下るものではない。そのためには、私たちはしっかりと自分自身を整えなければならない。自分を捨てる。言葉を変えて言えば、むなしくなることである。自分の中を空っぽにすること。なぜなら私たちは見える世界にこだわって、健康のことお金のこと仕事のこと人間関係のことなど、それらで心と頭の中はいっぱいになっている。聖霊の入る余地はないことになる。いや、それらで壁を作っているようでもある。そのこだわりをなくす。それらがどうでもいいと言っているのではない。健康やお金や仕事や人間関係、みんな大事である。でもそれだけではない。もっと大事なことがある。そのことに気づくこと。そうすればこだわりは薄れていくだろう。
 
 「あなたがたの上に聖霊が降ると、……わたしの証人となる」。聖霊による力をいただいて、この地で大胆に福音を宣べ伝えていこう。

牧師のある朝 ~日記風に~

2010-08-09 13:33:43 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年8月8日 牧師のある朝 ~日記風に~

 8月6日金曜日。今日は65年前、広島に世界最初の原子爆弾が落とされた記念日。その日の広島もよく晴れていたと言われるが、今朝の平塚もよく晴れている。というより猛暑。5時起床。洗面、トイレをすませ、お湯を沸かして朝一番の楽しみなコーヒーをいれる。コーヒーを淹れながら着替え。一杯目のコーヒーを庭の花や作物を眺めながら味わい飲む。

 5時半、さあ早朝散歩に出発。今日は金目川方面。同じ金目川を目指すにも3ルートある。国道1号線のルート、富士見小学校の前を行くルート、農業高校方面とある。今日は農業高校から金目川へ。先週同じ方面を散歩していて、市民病院の近くに池があることを発見。さらに近くの公園に子ども用プール(市営)もあることを発見。6時15分朝刊を取って帰宅。汗びっしょり。シャワーを浴びて着替え。

 6時半、牧師室でデボーション(静聴の時間)。聖書日課の聖書箇所を読み、祈る。あわせて、賀来周一著『365日の聖書』(キリスト新聞社 2005年)の今日の箇所を読む。さらに使徒言行録20-22章を読む。これは私独自の聖書日課。このデボーションは説教やその他の仕事のアイデアなどがよく浮かんできたりするので貴重な時間だ。すぐノートにメモを取っておく。

 7時30分朝食。定番の生卵、みそ汁、味付け海苔、そして昨夜の残り物(これに干物などがつけば最高なんだが)。毎日おいしく食べられることに感謝。食べながら、みのもんたの「朝ズバ!」を見るのが最近の我が家の習慣。食後の食器洗いは私の役割。奥さんは洗濯に忙しい。合間をぬって2杯目のコーヒー片手に新聞を読む。

 次は庭の花や作物に水やり。すでに日差しは強い。8時半、今日は燃えないゴミの日。ゴミ出しをして、さあ仕事。9時過ぎにH牧師、続けてS牧師から電話。S牧師とは午後、仕事の打ち合わせのために会うことに。今日は午後に孫が来る。早目に仕事を終わらせたいと机に向かう。牧師の仕事は午前中が勝負と気合を入れる。