牧師室だより 2010年8月15日 はい
映画『二十四の瞳』に大石先生と12人の子どもたちが初めて出会う場面がある。大石先生が一人ひとり、名前を呼ぶ。元気に返事をする子、小さな声で返事をする子、はじめて氏名を呼ばれたのか自分のことだと気づかない子、それぞれの子どもの顔がアップで映し出される。この返事の仕方がその後の子どもたちの人生を暗示することになる名場面である。
教師が名前を呼び、子どもが返事をする。単純なその応答の中に、人間存在の本質が秘められているような気がする、と晴佐久昌英さんは本で書いている。私も長いこと教師をしていて、そのことを実感する。名前を呼ぶということは、その人がそこに「存在」しているかどうかを問う、ということである。しかし、それは「存在」の有無だけを確認するにとどまらない。たった一言の「はい」でも、その声はその人の内面をよく表わす。さらに、その時の体調や精神状態までも声に反映する。
何よりもその人が本当に自分自身を受け入れているか否かで、返事の質は決定的に変わってくる。自分の存在を全面的に肯定するとは、自分の良いところも悪いところも、強いところも弱いところも、まるごと受け入れることである。勇気のいることである。
しかし、私たちをまるごと受け入れてくださるお方がある。そのお方に、私たちはいつも呼ばれている。何か、とても大きな存在から、とても大きな愛を込めて。その大きな存在は、私に存在してほしいから私を生んだのだし、私に答えてもらいたいから、私の名を呼ぶ。
その呼びかけに、きちんと「はい」と答えたい。その時初めて、私はこの世界に存在するのであり、その「はい」を言えるなら、それがどれほど苦難に満ちた世界であっても、私として生き抜くことができる。
そしていつの日か、だれもがこの大きな存在から、最終的に名前を呼ばれる日がくる。その日、すなわちこの世から天へ呼び出される日、私たちは自分たちの名を呼ぶその声に、全面的な信頼を込めて、まっすぐに答えたい。「はい」と。