(先週の説教要旨) 2010年8月22日 杉野省治牧師
「新しいイスラエルとしての教会」 使徒言行録1章12-26節
使徒言行録の冒頭は、復活した主イエスが40日にわたって、度々弟子たちの前に現れて、数々の確かな証拠によって、復活の事実を示し、神の国について語られ、弟子たちに対してエルサレムにとどまり、「待つ」ことを求められたこと(4節)が書かれている。
弟子たちは、ただじっと待っているという受身的、消極的態度ではなかった。彼らのしたことはまず、集まって「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)ことをルカは伝えている。聖霊降臨の前の弟子たちを中心にした群れを、何にも勝って結集させていたのは、このように一致した、忍耐強い祈りの力であった。祈りが教会の発展の推進力であり原動力であることをルカは使徒言行録全体を貫いて証言している。
祈りから始まった。その祈りの中で導かれてきたことが一つあった。それはユダのかわりに一人の人を立てなければならないということ。聖書では、十二は大切な数字である。「古いイスラエルの十二部族」に取って代わる上で、「新しいイスラエルとしての教会」もまた十二でなければならなかった。十二人の弟子の中から一人欠けたまま祈っていたが、それでは心を合わせてひたすら祈ることにはならない。一人が欠けていれば、全部が欠けることになるということである。そこで一人を選んだ。
この選びは、主イエスから与えられた任務、主の復活の証人となるということであった。そのために二人を立て、くじで選んだ。なぜくじかと考えるに、選びに極力、人間の思いや考えが入り込まないようにと考えたのだと思う。すなわちくじの選びは主の選びであることを示していた。
教会の使命とは人間が力を合わせて何かをするというようなものではなく、神が私たちを通してこの時代に力強く働きだされることである。どんな時代でも、教会を建てられたのは神であり主イエスである。主イエスがペテロをはじめとする弟子たちに、「わたしはこの岩の上に私の教会を建てよう」(マタイ16:18)と言われたように、教会を建てるのは主イエスであり、私たちはそれに参与するのである。それを私たちがするように思っているなら、悔い改めなければならない。
教会を立て上げていく一つ一つの事柄、今日の聖書個所から言うならば使徒の選びだが、私たちの教会でいうならば牧師や執事の選びであろう。牧師が立てられ、執事が立てられていく、その一つ一つが神の選びであり、神の働きをそこに見るものである。バプテストである私たちはくじでは牧師や執事を選ばないが、信徒一人ひとりの投票を通して、神の力が働きたもうと信じて行なっているわけである。だからこそ、その決定は尊重されなければならないし、そのように尊重していくことが、教会の一致につながり、教会を立て上げていくことになるのである。
キリストの体なる教会であるならば、そこでは人間は退いて、キリストのわざが尊ばれなくてはならない。神の恩寵は、私たちの思いを遥かに越えて教会の組織を整えられる。ふさわしい信仰者が補充されていく。必ず次の時代を担う世代が与えられる。その確信に立って祈り、励むことを神は私たちに期待しておられる。