(先週の説教要旨) 2009年12月20日 杉野省治牧師
「出来事となった神の言葉」 ルカによる福音書2章8~21節
メシアの誕生は最初に羊飼いたちに告げられた。神殿の大祭司や祭司、宮殿の王侯貴族たちではなかった。羊飼いは納税の対象ではなかったので、住民登録の必要はない。羊飼いたちはいと小さき者、貧しき者の代表だった。神の使いは彼らを選んだのである。神の選びは不思議な、そして神の自由な選択である。社会的な地位や宗教的身分の高さゆえに、神の選びがあるわけではない。逆に弱さや貧しさの故に、神が選んだのでもない。強さも弱さも選びの条件ではない。それは全く神の自由な選択である。しかし、これが不思議なことだが、神は弱い者、貧しい者、いと小さき者である羊飼いを選んだのである。この不思議さは人間の判断によって合理化されてはならない。しかし、このことは私たちにとって、なんという慰め、また励ましだろうか。
今朝の聖書個所では、羊飼いたちに大きな喜びを伝えるために御使いが「近づき」と記されている(口語訳では「現れ」)。「近づき」だから、遠くの空中に天使がいるのではない。文字通りには「近くに立つ」という意味。だから、羊飼いたちはこの喜びの知らせを遠くに聞くのではなく、まさにその知らせにぶつかるように出会うのである。大きな喜びが羊飼いたちにぶつかってくるのである。この言葉には「アタックする」という意味もある。この知らせに圧倒され、何より突き動かされる。じっとしていられない。羊飼いたちの反応がそれを示している。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(2:15)。御使いの知らせにぶつかって、じっとしていられない羊飼いたちは主イエスが生まれた家畜小屋の飼葉桶へと急ぐ。
ところで、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(2:15)という、この「出来事」と訳されている言葉だが、丁寧に言うと、「実際に出来事として起こった言葉」である。出来事となった神の言葉である。この福音書を書いたルカが第2巻として書いた使徒言行録で、ペテロがこんな言葉を語っている。「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です」(10:36-37)。神からすべての人に与えられた平和のメッセージは、イエス・キリストによって伝えられたが、実はまた一つの出来事であった。ペテロはそのように言って、さらに、主イエスが人々を愛して生き、十字架につけられて殺され、よみがえられた出来事を語る。主イエス・キリストこそ、出来事となった神の言葉である。羊飼いたち、そして私たちは、クリスマスにこの出来事にあずかるのである。
クリスマスこそ平和を告げる神の言葉である。平和のメッセージである。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(2:14)。この神の御言葉が出来事となっていく。イエス・キリストを通して、神の言葉が出来事となっていく。イエス・キリストを救い主と信じる信仰を通して、平和へのメッセージを受け取り、そして平和のために働く者へと突き動かされていくのである。
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