<先週の説教要旨>2019年3月24日 主日礼拝 杉野省治牧師
「あなたは聖書をどう読んでいるか」 ルカによる福音書10章25ー37節
このお話は「善きサマリ人」の話としてよく知られている話だが、話のつながりとしてはその前の個所において、主イエスと弟子たちが天に名前が書き記されていること、言い換えるならば「永遠の命」を喜びあっているときに、ある律法学者が「永遠の命」を受け継ぐためには「何をしたらいいのか」と質問した話の流れになっている。
律法学者は、実は答えを知っている。「試そうとして」とあるように、律法学者は自ら「知恵ある者」(10:21)として答えを持つ者であると自負している。主イエスは、問いをそのまま彼に返す。「律法には何と書いてあるか?あなたはそれをどう読んでいるか」。すると、律法学者は「…あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えた。律法学者の答えはユダヤ教、つまり律法の中核を成すもので、誰でもよく知っている教え。しかし、主イエスはそこで終わらず「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と話を続けられる。これは律法の行いによって命を得なさいと言われているのではなく、話の流れから言えば、天に名前が書き記され、永遠の命に生かされている人の生き方として、そのように行いなさいと招いておられるのである。
この話の中心的なポイントは、主イエスが彼に「あなたはどう読んでいるのか」と問いかけたこと。当時の律法学者たちは、律法の言葉を大切にしているようでいながら、むしろ逆に、彼らの読み方、解釈などの言い伝えによって、律法が本来伝えている神の御心を矮小化していた(マルコ7章参照)。
律法学者はさらに主イエスに「自分を正当化しようとして」、「では、私の隣人とはだれですか」と質問する。律法学者たちの解釈では「隣人」とは「ユダヤ人の同胞」という意味であり、そのような隣人愛を実行してきたことを自負する律法学者は、自分を正当化しようとしたのである。そのような彼らと主イエスは、神学論争はされない。むしろ、だれともよくわからない人が助けられたシンプルな物語を語ったのちに、ただ一言「誰がその人の隣人になったか」と問われ、律法学者から「その人を助けた人です」という応答を引き出された。
追いはぎに襲われた人は「ある人」と書かれている。その人がユダヤ人であるとは記されていない。何者かわからないということがポイント。サマリア人は、倒れている人が「ユダヤ人だから」助けたわけでなく、また「ユダヤ人にもかかわらず」助けたわけでもない。サマリア人は、相手が何者であろうと、倒れている人を「憐れに思って(はらわたのちぎれる思いに駆られて)」介抱したということが重要である。
「祭司」はエルサレム神殿の宗教儀式をつかさどる聖職者。「レビ人」はその祭司の下で奉仕する人たちで、民衆の教育にも当たることがあった(歴代誌下17:8-9)。彼らが追いはぎに襲われた人を助けなかったのは、倒れているのがユダヤ人かどうかわからなかったからでもあり、ユダヤ人だと分かれば彼らは隣人愛を実行しただろう。「隣人とはだれか」という考え方自体が問題なのである。主の祈りに「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」とあるが、この「我ら」にはだれが入るのか。
イエスが問題にしたのは「隣人とはだれか」ということではなく、「あなたは誰の隣人になるのか」ということ。律法に何が書いてあるかを知ることも大事だが、それを「どう読んでいるのか」こそが問われているのである。
主イエスは、愛について語るのではなく(定義)、具体的な愛の行為こそが重要なのだ、と言われたのだ。そこには民族や宗教の相違を超えた愛が、隣人観における「内」と「外」を超えた隣人愛が語られている。要するに、彼が傷つき倒れていて、助けを必要としているゆえに、サマリア人は立ち止ったのである。「隣人とはだれか」ではなく、「誰がその人の隣人となったか」と問われているのである。ここに主イエスの普遍主義的愛のあり方を見ることが出来る。今一度、立ち止まって、私たちの信仰生活を吟味してみよう。自分は聖書をどう読んでいるか。
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