<先週の説教要旨>2019年2月3日 主日礼拝 杉野省治牧師
「打ち倒されても滅ぼされない」第二コリント4章7-15節
今朝の聖書箇所には、神を信じる者の生きる姿が描かれている。この手紙を書いたのは使徒パウロ。彼は8-9節でこう言っている。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。ということは、逆に考えれば、神を信じるから苦労しないとか、生活が楽になるとかということではない。信仰を持っているから物事がうまく運ぶとか、成功するとか、そういうことでもない。おそらくここで書かれていることはすべて、パウロ自身がずっと経験してきたことだろう。信仰を持って、ずっと生きてきた。しかし、四方から苦しめられる、人から虐げられる、あるいは途方に暮れる。これからどう進んでいいか、生きていったらいいかわからなくなる。
その中でパウロはこう言っているのだ。四方から苦しめられても行き詰まらない。道が全く見えなくなって途方に暮れることがあるけれども、それでも失望しない。あるいは人々から虐げられる、ひどい目に遭う。しかしそれでも自分が見捨てられないのだ、と彼は言う。打ち倒されても自分は自分の底力によって立ち上がるというのではない。どんなにひどく打撃を受けてもそこにしっかり自分は立ち続けるというのでもない。打ち倒されるのだ。立っていられない。しかし滅びない、と彼は言う。倒れてそこで終わりだというのではない。滅びない、あるいは滅ぼされない。打ち倒されても滅びないというのは、神が自分を滅ぼされないという意味である。つまり、絶体絶命の中で、しかし滅ぼされはしない。追い詰められてしまうけれども、しかしそこで終わらない。そこで生きるというのである。パウロは、神を信じる者は、まさにその状況の中で生きる、とここで言っているのである。つまり、そのどん詰まりの場所で、神を信じる者は生きるのだと。虐げられて弱り果てている。しかし見捨てられはしない。神に見捨てられてはいない、と彼は言う。それが彼の支えなのだ。だから彼はそこで生きるのである。
彼はさらにこう言っている。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために、わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(10節)。イエスの死を体にまとっていますと言う。生きながら絶えずイエスのために死にさらされています、と彼は言う。つまりあのイエス・キリストが歩かれたように、試練にさらされながら歩いていくのだ、と言うのである。迫害や誘惑や敵するものやそういうものにさらされながら生きていくのだと言うのである。信仰というのは、安全地帯ではない。あるいは無風地帯に入ることでもない。つまり、信仰とはあらゆる危険から身を守るシェルターのようなものではない。試練のただ中で生きるのである。あるいはそこで生かされるのである。それが信仰。それは、精神力ではない。つまり自力ではない。神がそこで生かしてくださる。私たちの力尽きたところ、私たちの知恵の及ばない場所、この世の圧力に抗しきれなくなって倒れてしまうところ、そこで神が受け止めてくださる。打ち倒された私たちを神が支えてくださる。それが信仰によって生きているということである。
詩編46篇2節にこういう言葉がある。「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。神は私たちが苦難の中にいるときに、私たちを天から見守っておられるというのではない。苦難の中に必ずそこにいまして助けてくださる。だから私たちは苦難の中で生きることができるのである。神が共にいてくださるから。それはイエス・キリストの約束だと言われた。神が、この私たち罪人と一緒にその場所にいてくださる。四方がふさがっても、逃げ道がもう何も見えなくなったとしても、生きる道がある。あるいは、生きる道がそこに生まれる。必ずそこにいまして私たちを助けてくださる。パウロは「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」と書いている。
死ぬはずのこの身に、終わるはずのその場所に、イエスの命は現れるのである。行き詰ったところで死なず、倒れたところが終わりではなく、そこで神に出会い、交わり、そこで生きる。そこが私たちの原点になる。生きていく原点になる。追い詰められたその場所が、私たちが倒れてしまったその場所が、私たちが生きていく原点になる。新たな出発点となる。より深い恵みの世界への出口になるのである。
いつも共にいます主が、私たちと出会い、私たちを受け止めてくださる。だから私たちは試練の中にあっても生きられるのである。終わりではない。試練を突き抜けて、思いがけない恵みの港に着くのである。試練なしで、いいことばかりあって、楽をして、どこかいい場所に着く、そんなことはないのである。試練を突き抜けて、思いがけない恵みの場所に私たちは押し出される。その世界に私たちは導かれる。それが試練というものの私たちにとっての意味。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:4)。
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