気が重いよ…伊那篇

落ちるところまで落ちた男の日記

高校野球長野大会開幕・上伊那の現状を語る

2016-07-09 19:56:31 | 昭和レトロ
今日から、いよいよ全国高等学校野球選手権の長野大会が始まりました。
一時は、もう少しで参加校が100校に到達か---というところまで行ったのですが、少子化の影響で、最近は年々参加校が減って来ております。
確か、高野連加盟校は80校台にまで減っているはず。
でも、日本ウェルネス高校が開校し、今大会に初出場するなど、今年も甲子園出場に向けての熱戦に目が離せません。
最近、新聞を見て目にするのが、『上伊那から甲子園出場校を!』という記事です。
向山県議会議長をトップにしたプロジェクトチーム?も出来たみたいです。
それから、店主が腰痛のために休業していた伊那市荒井のラーメン店「原点」にも、毎年恒例の『行くぞ!甲子園』の特大横断幕がいよいよ張られました。
確かにね、昔から上伊那というところは、野球が盛んなところで、伊那北が3回、赤穂が1回、昭和30年代には甲子園に出場しているのです。
社会人野球(ノンプロ)だって、かつては興亜電工(現KOA)や、養命酒に硬式野球部があったのですから。
今でも、県内の私立強豪校のメンバー表を見ると、伊那中・東部中・春富中・西箕輪中等の出身者たちが、レギュラーで活躍しています。



もし、上伊那に私立の強豪校があったなら、有望選手の流出を食い止めることが出来るのかも知れません。
茅野にある東海大諏訪(旧校名・東海大三)に、あれだけ上伊那の生徒が通っている訳ですから。
さすがに、名門野球部の伊那北には野球が上手いだけでは入学出来ません。
伊那弥生ヶ丘だって、然り。
伊那西高校が、一躍「新体操」で全国トップクラスになったのも、私立だから成し得たことです。
橋爪監督は、元を辿れば、弥生の教諭で新体操部監督でした。
当時の弥生は、インターハイには出場出来ても、それ以上は望めませんでした。
ポーラスターというスクールで、幼年時から中学生まで、手塩に掛けて選手を育てても、大半が弥生に入学出来ないのでありました。
だから、橋爪監督は公立校から私立校に移り、幼年時から育て上げた選手たちを受け入れて、あれだけ強くなったのです。
松川町にかつて、私立の塚原天竜という高校がありました。
野球も強くて、春のセンバツ大会に出場経験があります。
その後、天竜光洋に校名変更し、組合立の松川、県立の松川へと変遷して行きます。
もし、今でも私立校として残っていたならば、上伊那・下伊那の中学球児の受け皿になっていたかも知れません。



上伊那地域で、甲子園!
通信制高校の誘致はどうでしょう。
それこそ、定時制の上伊那農業高校の跡地を使って。
練習グラウンドは、ちょっと歩けば、市営・県営球場があります。
佐久市の地球環境高校。
筑北村の日本ウェルネス高校・信州筑北キャンパス。
2校とも通信制高校です。
羽鳥監督率いる地球環境は、開校後 間も無く甲子園に出場しましたものね。
(羽鳥監督:塚原青雲・地球環境で甲子園出場に導いています)
日本ウェルネスの中原監督も、松商学園・長野日大で甲子園に何十回も行っています。
上田佳範投手を擁して、センバツ準優勝という輝かしい球歴も持っているのです。



これは、昭和58年頃の長野大会のトーナメント表です。
これね、スポーツ新聞から切り抜いて、毎日赤ペンで記していました。
当時、東京在住。
記憶が間違っていなければ、長野商業VS飯田の決勝戦。
長野商業は、メガネの高橋投手で優勝しています。


にほんブログ村



にほんブログ村

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする