習志野歴史散歩:寅さんと谷津遊園の大観覧車
おなじみの寅さん「男はつらいよ」シリーズに習志野が登場する、と言ったら、どの作品かわかりますか? 正解は、第30作「花も嵐も寅次郎」(昭和57年)。これに谷津遊園が登場します。遊園地でチンパンジーの飼育係をしている青年(沢田研二)とデパートガール(田中裕子)の恋。そこにキューピッド役の寅さんが絡んで毎度のドタバタ騒動が起こるのですが、青年がマドンナ田中裕子に告白するクライマックス・シーンは大観覧車で撮影されています。背景に袖ヶ浦団地や、まだ茶色い土が目立つ津田沼高校周辺がちらっと映ります(秋津団地の入居が始まって2年。当時はまだ街路樹なども小さく、殺風景な埋立地でした)。
(小さなお子さんには不適切なシーンがありますので、ご注意ください)
しかし残念なことに、谷津遊園はこの映画の封切直前に閉園してしまいました。経営していた京成電鉄が、翌年に東京ディズニーランドの開園を控えていたからです。けれども今考えると、観覧車だけでも残しておいたら、映画にあやかろうとするカップルがたくさん来たのではないか。いや、せめてこの映画の記念プレートでも現場に残しておいたらよかったのに、という気がします。谷津遊園の最後の姿をよくご覧になってください。
ところで、この映画の中で光っているのが青年の職場の先輩を演じる桜井センリ(クレージーキャッツ)。二人を観覧車に乗せてやり、青年に「おい、頑張れよ」という顔をしてみせるのですが、そのほんの一瞬の演技が映画にぐっと味を出しています。こういう役者も少なくなりましたね。(ニート太公望)
(編集部からの追記)
寅さんの名は車寅次郎、「寅次郎」は、「男はつらいよ」の監督、山田洋次さんが、尊敬する喜劇映画監督「斎藤寅次郎」(エノケン・ロッパなどの映画の監督)からとったそうですが、吉田松陰とも関係があるようです。
〇「車」という姓
渥美清さんが生まれた「下谷区車坂(現在の上野)」から取った、という説や、江戸時代「テキヤ」の親玉が代々「車善七」という名前を名乗っていて、そのことを知っていた山田監督が、同じ「テキヤ」の寅さんの姓に使ったのではないか、という説もあります。
〇寅さんと吉田松陰はそっくり
映画監督「斎藤寅次郎」から取った、ということを述べましたが、幕末の風雲児、吉田松陰の幼名も「寅次郎」。満州から引き揚げてから15歳から18歳まで山口県宇部市(昔の長州)の伯母の持ち家で暮らした山田監督が、長州の偉人、吉田松陰に寅さんを重ねたのではないか、という説を延広真治さんという方が、以下の例をあげて述べているそうです。
(二人とも次男坊)
映画の設定では、寅次郎の父親・車平造には妻との間に男女1人ずつと芸者お菊(映画ではミヤコ蝶々さんが演じました)との間に生まれた寅次郎の3人の子供がいます。女の子は「妹さくら」です。平造と正妻の間に生まれた男子が寅次郎の腹違いの兄です。そして腹違いの兄・竜一郎は大学を中退して働いていたが、釣に出かけて不慮の事故で亡くなったそうです。
かたや松陰先生の名前は吉田寅次郎。しかも寅さん同様こちらも次男坊。
(松陰先生の兄の名前とタコ社長の名前が同じ)
松陰先生の実兄は杉梅太郎。そしてタコ社長の本名は桂梅太郎。
桂はもちろん松陰先生と交友のあった桂小五郎。姓の杉をそのまま使えば直接的すぎるので、桂小五郎の桂にあらためたのではないか。
(二人とも妹思い)
寅さんには唯一の妹さくらがいて、妹思いでよく旅先から手紙を書いている。
松陰先生にも3人の妹がいて、旅先から頻繁に妹たちに手紙を書いている。
1番上の妹千代は第10作のマドンナ「寅次郎夢枕」の千代(八千草薫)に、次女寿は42作「僕の伯父さん」のマドンナ寿子(壇ふみ)に、3女文は「浪速の恋の寅次郎」のマドンナふみ(松坂慶子)にそれぞれ生かされている。
(松陰先生の出身地は団子岩。寅さんの家は団子屋)
松陰先生の出身地は松本村団子岩。つまり松陰先生は団子岩の寅次郎。
杉家の2男として生まれたが、吉田家の養子となって吉田家を相続しました。
いっぽう、寅さんは団子屋の寅次郎。
次男ながら兄が死んだので車屋の相続人です。
山田監督は団子岩→団子屋→葛飾柴又(草団子が名物)と連想が働いたのではないか。
(肉体的条件や嗜好が似ている)
松陰先生は「短小にして背かがみ、容貌醜く色黒く、高鼻にして痘痕あり、言語甚だ爽やか」であったといいます。
要するに醜貌ながら美声。声は二枚目、顔は三枚目で人気を得た渥美清そっくりですね。
嗜好については松陰は煙草を吸わなかったが、果物や餅を好んだそうです。
寅さんもまた喫煙しないのは周知の事実で、果物や菓子を好んだ。
服装も松陰は無頓着だが、寅さんも無頓着である。
(二人とも生涯独身で旅をしてばかり)
そして2人とも生涯独身で、旅が多く、叔父に育てられたという点が共通しています。
松陰先生が結婚しなかった理由を妹千代は、旅ばかりしていてお国にいる時は蟄居の身でとても結婚どころではなかったと話しているそうです。
松陰先生は5歳で父親の次弟の吉田家の養子となり、養父の死後吉田家を相続しました。
寅さんもまた放浪中に父親が死亡したため、叔父夫婦が「とらや」をつぎ、寅さんにとって2人は両親とも呼ぶべき存在です。
(性向や主張も同じ)
松陰先生は感激家で、涙もろく、エキセントリックで、まっすぐで、計画性が乏しかった。
それゆえ、彼の事業と実行の多くは失敗に終わりました。そして失敗のたびに弁解した。
寅さんの性格とそっくりです。
「思い起こせば恥ずかしきことの数々」と書く寅さんの詫び状を持ち出すまでもないですね。
(二人とも憂国の志)
松陰先生といえば尊皇攘夷を主張したとされるが、寅さんもまた同様。
24作「寅次郎春の夢」で、タコ社長から「寅さんは尊皇攘夷か」ときかれて「そうだ」と肯定しますが、寅さんの対米感が良く出ています。
山田監督は敗戦とともに満州から引き上げて、宇部中学から山口高校へと進んだ。
松陰先生は長州の偉人として、ごく身近な存在であったに相違ありません。
「山田監督が渥美清に松陰との共通性を見出し、主人公を寅次郎と命名したため、寅さんの原点が松陰となり、本数を重ねるにつれ、寅さんが松陰に近づいて行ったのではあるまいか。
それが連作48本に及んだ原動力になったに違いない」と、延広さんは述べています。
なんだか、松陰先生の顔が寅さんに似ているような気がしてきました。